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アメリカは「合衆国」ではなく、やはり「合州国」が正しい

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「合衆国」ではなく「合州国」



①「合衆国」と世界の「第七帝国=日本」

 アメリカの国名「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカUnited States of America」は普通「アメリカ合衆国」と翻訳されるが、これは誤訳に近い誤りで、正確には合州国とするのがいい。このことを始めて主張したのはジャーナリストの本多勝一であるが、それ以降、日本では相当数のアメリカ研究者や翻訳家が、この用語を採用している。

 建国時のアメリカを構成したのはイギリスからの移民が入植した一三のステーツであった。ステーツという言葉自体は国家ということであり、ステーツには、本来、「州」という意味はないから「ユナイテッド・ステーツ」を「合州」とは訳せないという意見があるかもしれない。しかし、たとえばヴァーモントは現在でも「ステーツ・オブ・ヴァーモントState of Vermont」といい、これをヴァーモント州と訳す。つまり「ステーツ=州」がユナイト(連合)したものを「合州国」と翻訳することは十分に筋が通るのである。

 これに対して、「合衆国」という翻訳はアヘン戦争時代の中国で作られた言葉らしい。「合衆」というのは、中国の古典に見える言葉で、「衆人を寄せ集める。衆人を和合させる」、つまり共和という意味であって、「アメリカ合衆国」というのは「アメリカ共和国」という意味になる。福沢の『文明論之概略』(巻一・一)も「合衆政治」という言葉を民主政治と同じ意味で使っている。徳川時代の末期、一八五四年の日米和親条約で「亜米利加合衆国」という名称が使用されたのは、この意味である。

 ここにはアメリカに初めて接触した一九世紀の東アジアの人々の驚きが表現されているといってよい。つまり当時の東アジアでは帝王や王がいない国家というものがあるというのは想像の外であった。実際、一九世紀前半までヨーロッパから伝わってきた世界の諸国家についての情報は、世界には七つの帝国とその他に幾つかの王国があるというものであった。七つの帝国とは西ローマ帝国を引き継ぐ神聖ローマ帝国(ドイツ)、東ローマ帝国を引き継ぐロシア帝国とオスマン・トルコ帝国、そしてペルシャ帝国とインドのムガール帝国、さらに東アジアでは清帝国と日本帝国の七帝国である。この七帝国の観念は一六世紀にはあったようで、日本帝国が七番目の帝国であったというのは、イエズス会の宣教師の記録にもでてくる。これが秀吉の朝鮮出兵と結びついて「日本=帝国」という観念がヨーロッパではよく知られるようになっていたのである。

 そう考えていた東アジアの人々にとっては一八世紀末に登場したアメリカが王のいない強国として発展しているのは驚異の対象であった。とくに自分の国が世界の帝国の一つであると認められていると考えていた日本は、帝王はおらず、王さえもいない三流の国家としか考えられないアメリカから、ただの軍人ペリーがやってきて対等な通商と開国を要求したことに憤激したのである。我々の国は帝国であったはずなのに、これはどうしたことかという訳である。「合衆国」という用語は、そういう中で流通した用語なのである。福沢諭吉は、『学問のすすめ』の冒頭にアメリカの独立宣言を「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」と翻案して掲げて人々を驚かしたが、これも同じことである。こういう経過のなかで、日本には「アメリカ=民主主義」という図式が深く根づくことになった。太平洋戦争の敗北とアメリカ占領という経過のなかで、それがさらに強化されたことはいうまでもない。

 この意味では、私たちが「合衆国」という言葉を使い続けていることは、私たちが一九世紀からの世界認識の枠組みに囚われていることの象徴であるかもしれない。これは重大な問題なので、以下、必要な限りでの歴史的説明をしておきたい。

②アメリカの北部と南部

 アメリカは、何よりもイギリスが北アメリカ大陸に設置した一三の植民地「州」の連合、植民国家として出発した。それはアメリカの地図をみれば明らかなことで、そこでは州境は自然地形ではなくほとんど直線の場合が多い。これは先住民が自由に使用していて境界が存在しない土地を上から測量して、植民地「州」権力が自分たちの領分を決めていったためである。これはヨーロッパ列強がアフリカや中近東で大規模な測量をして直線の国境線を画定し植民地体制を固めていったのと同じやり方である。合州国という表記はアメリカが、こういう「州邦」権力から始まったという経過を正しく表現している。

 アメリカ建国時の一三州とはニューイングランドといわれる北東部四州(①マサチューセッツ、②ロードアイランド、③コネティカット、④ニューハンプシャー)、中部の大西洋岸四州(⑤ニューヨーク、⑥ニュージャージー、⑦ペンシルベニア、⑧デラウェア)、そして南部五州(⑨バージニア、⑩メリーランド、⑪ノースカロライナ、⑫サウスカロライナ、⑬ジョージア)からなっていた。

 このうち、植民はまず南部から始まった。それが一六〇七年に設置された南部のヴァージニア植民地である。最初の移住者一〇五人は半数が飢えと病気で死ぬという厳しい運命に見舞われたが、そのなかで彼らはネーティヴの人々の助力をえて命をつないだ。しかもネーティヴの人々からアメリカ大陸原産のタバコの栽培法を習い、それをヨーロッパ市場にだすことによって徐々に安定していったという。そして彼らはアフリカから移送された奴隷の労働によって肥沃な南部農業地帯に農場を経営し、膨大な資本と富をアメリカにもたらしたのである。一七七〇年代の南部は北米植民地の総人口の約半数が住んでいたという。一九世紀半ばまでのアメリカの中心は北東部でも中部でもなく南部にこそあったのである。しかし、そのなかでネーティヴの人々の善意はまったく裏目にでて、彼らは先祖から守ってきた大地から放逐されるにいたった。

 これに対して、北部の植民はやや遅れて、一六二〇年、メイフラワー号にのった清教徒のピルグリム・ファーザーズが北部ニューイングランドのプリマス植民地に渡ったのが最初である。彼らの場合も、当初、大きな苦難を経験し、ネーティヴの人々に助けられながら、結局それを裏切ったのはヴァージニアと同じである。しかし、プリマスに渡ってきたのは、イギリス国教会のなかでは迫害されていて、オランダからアメリカに渡った分離派といわれる例外的な人々であった。彼らは一〇年後に渡ってきてマサチューセッツを建設した別の清教徒(イギリス国教会内部の改革派)の移民グループに統合されてしまう。北東部ニューイングランドは、南部に比べて狭く寒冷で、土地も痩せており、この時期のアメリカ全体のなかではニューイングランドの位置が軽かったことは明らかである。北部では南部のように輸出を目指して奴隷労働による農業大経営を営むことはなく、むしろ自営農業のベースの上に、漁業・造船・手工業・商業・貿易などが発達することとなった。

 なお、以前、日本では、アメリカの建国というと、ピルグリム・ファーザーズが話題の中心となることが多かった。これには色々な理由があるが、大きかったのは、メイフラワー号が到着した冬一一月を記念するという「感謝祭」(サンクス・ギヴィングデイ)が、一九四八年に、日本の新嘗祭の日程の上にかぶせる形で「勤労感謝の祝日」という祝日に定められたことであろう。本来、「感謝祭」は、本来はプリマスの地方的な祝祭であったが、南北戦争で北部が勝利したのちに、その勝利宣言のようにして「建国神話」化されたものである。今では忘れられがちなことだが、アメリカの軍事占領とともに、その建国神話が(七面鳥とともに)日本に持ち込まれたということになる。

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