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- 2016年08月09日 00:00
直立して「お気持ち」を拝聴する
八月八日午後三時、天皇陛下の「お気持ち」をテレビの前に起立して拝聴した。
天皇陛下は、一片の私心もなく、伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致され、我が国の百二十五代にわたる長い天皇の歴史を改めて振り返られつつ、ただ、「天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務め」を全身全霊をもって果たしてゆくべきお立場から、国民に「お気持ち」を伝えられた。
その「お気持ち」を伝えられる天皇陛下の「声」それは、まさに「玉音」であった。
涙して拝聴した方も多いと思う。
この「玉音」は、「法的地位」からではなく、「神秘に淵源する権威」の世界から発せられたものである。
「天照大神の天壌無窮の神勅」から発せられたものである。
そう、フランスの社会人類学者であるクロード・レブィストロースが次のように言った世界に我々日本人がいる。
天皇陛下の「お気持ち」は、その世界からの「玉音」であった。
「われわれ西洋人にとっては、神話と歴史の間に、ぽっかりと深淵が開いている。
日本の最大の魅力の一つは、これとは反対に、そこでは誰もが歴史とも神話とも密接な絆をむすんでいられるという点にあるのだ。」
この「玉音」を拝聴した我々日本人は、まさに「御民(みたみ)吾 生ける験(しるし)あり」(万葉集)ではないか。
何をか言わん。
「お気持ち」に従うのが我らの道である。
なお、天皇陛下が冒頭に指摘された「戦後七十年の大きな節目」の出発点となった昭和天皇の終戦の「御聖断」は、昭和二十年八月九日に開会された「御前会議」において発せられたのである。
「お気持ち」が発せられた昨日の平成二十八年八月八日は、昭和天皇の御聖断から七十一年を経る前日にあたる。
この「御聖断」は、日本の未来のために、アメリカ軍の将官が次ぎに書いたような世界の歴史上前例のない終戦をもたらした。
「七百万(事実は八百万)におよぶ精神的にも肉体的にも強靱な日本軍が一斉に武器を置くという『歴史上、前例のない降伏』をもたらし」、現在の日本の出発点になったのである。
そして、「お気持ち」も、「御聖断」と同じく日本の未来のために、次のように締めくくられている。
「このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして、象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。
国民の理解を得られることを、切に願っています。」
最後に不本意ながら、マスコミ界と政界に、この度の天皇陛下の「お気持ち」の発表が憲法に反するのではないか、というグロテスクな議論があるので書かねばならない。
官房長官の記者会見において、どこの馬鹿マスコミ記者か判らないが、日本を知らない者か反日の者が、「お気持ちの内容に憲法違反があるのではないか」と質問したらしい。
そこで言っておく。
「憲法」は昭和二十二年五月三日に施行された「法的世界」の問題である。
「天皇」は、クロード・レブィストロースが指摘する「太古の神話から発する権威の世界」におられる。
従って、「お気持ち」は、「権威の世界」に在り「法的世界」に在るのではない。
よって、「法的世界」の憲法は、「権威の世界」の「お気持ち」に及ばない。
つまり、そもそも「お気持ち」に「憲法」に違反するか違反しないかの議論はあり得ないのだ。
これが「日本」なのだ。
天皇陛下は、一片の私心もなく、伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致され、我が国の百二十五代にわたる長い天皇の歴史を改めて振り返られつつ、ただ、「天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務め」を全身全霊をもって果たしてゆくべきお立場から、国民に「お気持ち」を伝えられた。
その「お気持ち」を伝えられる天皇陛下の「声」それは、まさに「玉音」であった。
涙して拝聴した方も多いと思う。
この「玉音」は、「法的地位」からではなく、「神秘に淵源する権威」の世界から発せられたものである。
「天照大神の天壌無窮の神勅」から発せられたものである。
そう、フランスの社会人類学者であるクロード・レブィストロースが次のように言った世界に我々日本人がいる。
天皇陛下の「お気持ち」は、その世界からの「玉音」であった。
「われわれ西洋人にとっては、神話と歴史の間に、ぽっかりと深淵が開いている。
日本の最大の魅力の一つは、これとは反対に、そこでは誰もが歴史とも神話とも密接な絆をむすんでいられるという点にあるのだ。」
この「玉音」を拝聴した我々日本人は、まさに「御民(みたみ)吾 生ける験(しるし)あり」(万葉集)ではないか。
何をか言わん。
「お気持ち」に従うのが我らの道である。
なお、天皇陛下が冒頭に指摘された「戦後七十年の大きな節目」の出発点となった昭和天皇の終戦の「御聖断」は、昭和二十年八月九日に開会された「御前会議」において発せられたのである。
「お気持ち」が発せられた昨日の平成二十八年八月八日は、昭和天皇の御聖断から七十一年を経る前日にあたる。
この「御聖断」は、日本の未来のために、アメリカ軍の将官が次ぎに書いたような世界の歴史上前例のない終戦をもたらした。
「七百万(事実は八百万)におよぶ精神的にも肉体的にも強靱な日本軍が一斉に武器を置くという『歴史上、前例のない降伏』をもたらし」、現在の日本の出発点になったのである。
そして、「お気持ち」も、「御聖断」と同じく日本の未来のために、次のように締めくくられている。
「このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして、象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。
国民の理解を得られることを、切に願っています。」
最後に不本意ながら、マスコミ界と政界に、この度の天皇陛下の「お気持ち」の発表が憲法に反するのではないか、というグロテスクな議論があるので書かねばならない。
官房長官の記者会見において、どこの馬鹿マスコミ記者か判らないが、日本を知らない者か反日の者が、「お気持ちの内容に憲法違反があるのではないか」と質問したらしい。
そこで言っておく。
「憲法」は昭和二十二年五月三日に施行された「法的世界」の問題である。
「天皇」は、クロード・レブィストロースが指摘する「太古の神話から発する権威の世界」におられる。
従って、「お気持ち」は、「権威の世界」に在り「法的世界」に在るのではない。
よって、「法的世界」の憲法は、「権威の世界」の「お気持ち」に及ばない。
つまり、そもそも「お気持ち」に「憲法」に違反するか違反しないかの議論はあり得ないのだ。
これが「日本」なのだ。