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今上陛下のご意思表明を受けて

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今上陛下のお気持ちの表明動画が8月8日午後3時に発表されました。NHKは列島各地、ことに被災地や最近行幸があった地域や施設などの人々がTVで聴き入る風景を流していました。暑い夏のこと、71年前の緊張を思い起こしたかつての少年少女もおられたでしょう。

NHKが譲位のご意思をスクープしてから、メディアが憶測で語るしかない様子見の期間というものがありました。今日のメッセージはその不安や疑いを晴れさせるに十分な、はっきりとしたものだったと思っています。

考えてみれば、日ごろから重責をか弱いお二人の身に負わせ、人権に重大な制限を課しておきながら、われわれの日頃の生活では、報道が通り過ぎるときにちょっと手を休めてTV画面をちらっと振り返るだけのような、他人事感があったのではないでしょうか。

「天皇」という概念が我々から遠い御簾の向こうの事柄であるという感覚は、人間宣言を行った昭和の時代から平成に移っても変わりませんでした。敗戦後しばらくたっても、昭和天皇の戦争責任をめぐる議論がくすぶり続けた影響は大きかったでしょう。そして「象徴」という現憲法における位置づけの分かりにくさもあり、殊に儀式と日本各地の訪問に力を入れてこられた今上陛下については、儀式好きな温和な天皇像という形でしか伝わってこなかったようにも思います。しかし、今上陛下は明治以来初めて、君主としてではなく即位された方です。古の儀式の復興に力を入れてこられたのも、日本各地を地道に回られたのも、本日のメッセージの格調高さと力強さ、そこに現れた知的な物事の把握力から推し量るに、決して故なきことではなかったのではないか、と今となっては思われるわけです。

いくつかの論点に従ってみていきましょう。

「個人」としての思い

そこに現れていたのは、まずはいささか強く発音された「個人」としての思いです。

個人としてまず今上が示されたのは思いやりでした。「天皇の終焉」(崩御のこと)時に生じるもがりの行事や、2年に及ぶ儀式の連続による家族の負担に馳せた思い。超高齢化社会において今上のみならず皇后陛下にも生じている負担と、公務を思うように果たせないことへのくやしさ。遠隔の地や島々への旅を含め、全国各地を訪れることが象徴行為として重要だとしたように、各地の国民と交流を重視する今上の公務負担は想像を絶するものです。

さらには、「天皇の終焉」間際の社会のはばかりや騒ぎ、崩御の際の長きにわたる社会の停滞。それを迷惑というのでもなく、はばかるのでもなく、むしろ当然のように淡々と述べた態度に、私はむしろ陛下の自信を見たような気がしました。国民の理解を得、国民とつながっていることに対する自負です。

今回のビデオ放映は、民衆とともにある天皇という自画像への、陛下の多大な責任感があらわになった瞬間だったということです。それは災害時に駆けつけ、人々に会って話を聞き、また皇居にあって祈るという形ではよく知られたお姿ではありますが、踏み込んでいえば、平成の時代に復古された民間信仰としての国民統合の象徴という解釈だったのかもしれません。では、今上が今回お示しになった国民統合の象徴という立場は、昭和の軍部支配がなされたときの天皇観とはどのような点で対立するものであり、また明治政府の築いた天皇観とどのように異なるのでしょうか。

軍部による天皇利用

昭和の時代における軍部の独走とは、大日本帝国憲法下における天皇の統治者としての役割を利用し、政治家をバイパスして直接「ご聖断」を仰ごうというものでした。立憲政友会の結党後長きにわたる努力が実を結んで、大正デモクラシーで花開いた政党政治は、その後民意からそっぽを向かれるに至りました。軍事費節減をめぐる政党の選挙目当てでの駆け引きと、軍部の独断への妥協に反発が広がったからです。また、最終的には政党が自ら退潮して軍人に役割を譲ったのが大政翼賛会でした。一方の軍も、関東軍の暴走に見られるように、大陸へ渡った軍人が勝手に条約に準ずる覚書を締結して既成事実化したり、戦線を拡大するような無茶苦茶な状態でしたので、内部さえ、きちんと統制できていたとはいいがたいのが現実でした。

そんななか、昭和天皇は、明治帝に倣いまたその伝統を一段と強化してことにあたりました。軍事クーデターである2.26事件を「朕が鎮圧する」といったくだりは有名ですが、まあ言ってみればドイツ帝国を作った軍事大国プロイセンの流れをくむ、カイザー(皇帝)のように、軍は同族であり自らの赤子であるという思いが強かったのだと思われます。もちろん、多くの方がご存知のように、そのように支配者として軍を愛した昭和天皇が玉音放送をすると聞くやいなや、軍の少なくない人数が叛旗を翻すまでに至ったわけですが。

軍部が推し進めたのが、明治初期の天皇主権説の歪んだ復活です。いま、日本国憲法下では主権は国民にあります。しかし、明治憲法下では主権は天皇にありました。この主権の担い手としての天皇を、生身の天皇としてみるか、一機関としてみるかについて大論争が興りました。天皇機関説の主唱者として記憶される美濃部達吉は、貴族院議員にものちに勅選された東大の法学部長であり、当時も反戦派や庶民派だったとはとても言えないナショナリストでした。ただ、美濃部は憲法学者として、天皇は天皇個人のために存在するのではなく、最高機関ではあっても一機関としての役目に縛られているのだという考え方を取っていたわけです。

ところが、美濃部の天皇機関説では軍部は都合が悪かった。内閣の権限を弱め、外交や軍事とそれにかかわる予算を全て掌握するために、天皇だけが持っていることになっている「統帥権」の範囲を拡げたかったからです。そのため、天皇をさらに人格そのものとして神格化し、美濃部の学説を異端として廃し、表舞台から追いやりました。

ところが戦後、美濃部は新憲法制定に強く反対しました。彼の中では大日本帝国憲法は正しく、軍部こそがそれを無視して国家をダメにした責任を負うべきだと考えたからです。しかし、その勝手なふるまいをした軍部は、戦後裁かれ、あるいは公職追放を受けていまはもういません。憲法も天皇を象徴としたため、天皇の政治利用を通じた権力の濫用の懸念はなくなりました。

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