- 2016年08月03日 13:50
虚構と現実は逆転する――『シン・ゴジラ』感想
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『シン・ゴジラ』を観た。ゾクゾクした。おもしろかった。というか「すげえ……」という感想だった。終わったときに自然と拍手してしまった。
そしてこれは、ただ単におもしろいだけでなく、観た人の胸に「刺してくる」作品だということも痛感した。少なくとも僕はそういう余韻が残った。
『シン・ゴジラ』は、エンタテインメントに徹しているのは大前提で、でも、東日本大震災を経た2010年代の日本を、時代というものをちゃんと照射している。1954年に公開された初代『ゴジラ』がそうであったように。きっといろんな人が、いろんなことを言うだろう。言いたくなるだろう。なぜならこれは踏みこんでくる作品だから。
僕は特撮映画のマニアではないし、これまでのシリーズもハリウッド版のゴジラもろくに観てない人間なので、そっち方面の深い考察とかオマージュの指摘みたいなものは他の人にまかせようと思う。
『シン・ゴジラ』はとても社会性を持った作品でもあるので、そちら側の視点からの考察も沢山出まわると思う。いろんな批評や感想が出揃って、評価が確定していく前に、公開から数日経った今の段階で僕が感じたことを書き留めておこうと思う。
というわけで以下からはネタバレです。未見の方は注意。というか、これは余計な情報いれずにまず観ることをおすすめします。
なぜ『シン・ゴジラ』のゴジラは怖いのか
『シン・ゴジラ』を観て最初の印象。それは「ゴジラ、怖い……」だったのよね。制作陣の意図として「最初のゴジラに立ち返る」というものがあったらしいと後で聞いて、とても納得。圧倒的な理不尽さをもって、普段の生活が、日常が破壊される恐怖。それがあった。
ゴジラの登場は「災害」として描写される。まず、東京アクアラインで大規模な陥落事故がある。その時にリアルだなーと思ったのが、逃げ惑う群衆に「余裕がある」のをちゃんと描いていること。スマートフォンで惨状を撮影したり、避難路を歩く人が「へー、こんなところあるんだ」と言い合ったり。
そして東京湾に姿を表したゴジラは「巨大不明生物」としてニュース報道される。人々が海ほたるからスマートフォンでそれを群がって撮影する様子がカットインで描かれる。
「巨大不明生物」は第一形態から第二形態に進化し、我々がよく知るゴジラのビジュアルではなく、爬虫類に近い身体となる。そして上陸する。あの時の「眼」が怖い。意思疎通できない生物の眼。何を考えてるかもわからないし、意志なんてないんだ、ということが眼の描写だけで伝わってくる。その「巨大不明生物」が時速10数kmでただ歩くだけで蒲田から品川が蹂躙される。
そして、街をなぎ倒してる瞬間は「うわー!」「すげー!」なんだけど、ハッとするのは、その被害の「跡地」の描き方なんだよね。第二形態の「巨大不明生物」はなぜか海に帰る。なぎ倒された区域では、瓦礫や、木造住宅の破片や、ひっくり返った車両が、道路に積み重なっている。でも、それ以外の人々は、翌日も会社に行ったり学校に通ったり、日常を取り戻す。ニュースはL字型の画面で緊急報道となり、被害の模様や政府の対策を映し出す。何億円、何兆円の損害という話も聞こえる。
僕らはこの光景を観たことがある。震災だ。
過去数十年を経てキャラクター化されて、街を破壊する様子もすっかりエンタメ化された「ゴジラ」はここにはいない。この時点では、まだ劇中には「ゴジラ」という単語も現れていない。
そしてゴジラの「怖さ」のクライマックスは、再び上陸したゴジラが東京の中心で第四形態に進化して熱戦を吐くシーンだ。硬い皮膚にマグマのように滾っていた赤い光が紫色になり、それまでとは比べ物にならない圧倒的な破壊を見せる。基本的には「緩慢に移動する」だけだった巨大不明生物としてのゴジラが、ここで初めて自らの獰猛な意志を見せる。
すべてを焼き尽くせ。
東京が絶望に包まれる。ここで鷲巣詩郎の音楽がゾクゾクするような美しさと高らかな神聖さを奏でる。
やはり僕らはこの光景を観たことがある。使徒だ。
僕らの知っている街と、暮らしが、壊される。単なるディザスター・ムービーの快楽としてではなく、リアルにそれが実感される。
それが『シン・ゴジラ』のゴジラが「本気で怖かった」理由だと思う。途中で「もうやめてくれ。これ以上街を焼かないでくれ」と感じた理由だと思う。