- 2016年07月13日 17:00
「枠内の個性」から「社会人の個性」へ
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リンク先のサイボウズ式さんで、就活についてインタビューを受けました!
今回、若い就活生のなかに「個性」というワードがまだ残っているらしい、ということに改めて感動を覚えた。
自分の個性を売り込みたい・個性にあった仕事を選びたいといった願望は、90年代~00年代の若者には頻繁にみかけたし、私達の世代もそういう事を口にしていた。精神科/心療内科の外来診察でも、社会適応に行き詰まった人達から「自分らしい仕事ができていない」「自分がわからない」的な悩みを聴く機会は非常に多かった。
ところが十余年が経って、私はそういう「個性」や「自分らしさ」の話をあまり耳にしなくなった。その背景には、私が地方郊外で働いていること、私自身が年を取ってしまったこともあるだろう。それを差し引いても、外来診察中などで「個性」や「自分」やアイデンティティについて悩みを耳にする機会も大幅に減った。さいきんの思春期青年期の症例で目につくのは、もっと抜き差しならない根本的な精神疾患や、いわゆる発達障害圏についての悩みばかりである。
だから地方の国道沿いで生活しているぶんには、「モラトリアム人間の時代は終わり、ポストモラトリアム人間の時代が到来した」という見立てはだいたい合っているようにみえる。
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リンク先を見るポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて)
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ところが今回、少なくとも首都圏の学生さん達が「個性」や「自分らしさ」の意識を持っていらっしゃる話を耳にして、正直、ホッとした。ああ、ここにはまだモラトリアムが残っている、自分が知っている思春期心性に近い性質が生き残っている、そういう感慨を禁じ得なかった。
ただし冒頭リンク先でも書いたように、そういう「個性」や「自分らしさ」を模索する自意識は、もはや首都圏の選ばれた子弟だけが持てるものかもしれない。自己選択するための意志・能力・時間を兼ね備えた若者が、今の世の中に、一体どれぐらいいるだろう? 大学生の5割以上が奨学金制度を利用している社会状況のなかで、「個性」や「自分らしさ」を取捨選択する“ゆとり”を持っている若者は、ただそれだけで強者であり、選ばれた者ではないか。そして私が地方の国道沿いで出会う若者達の大半は、そのような“ゆとり”に恵まれない(相対的に)弱者ではないか。
もちろん【首都圏=恵まれている=強者】【地方=恵まれない=弱者】という二分法で説明できるものではなく、地方の若者にも「個性」や「自分探し」の片鱗は残っているのだろう……というかそう信じたい。しかし、こういう「個性」や「自分探し」の領域にも、いわゆる格差の問題がへばりついているようには感じられ、多数の青少年がモラトリアムに耽っていられた一時代が、とても豊かで、“一億総中流”の名に恥じないものだったと回想せずにはいられない。
ところが彼らは「枠内の個性」も信じている
さらに興味深かったのは、そんな「個性」や「自分らしさ」を模索している彼らが、「普通でありたい」という欲求を持ち合わせていることだった。一見、これらは相反しているようにみえるが、インタビュアーの渡辺さんの口から、両者を結び付ける鍵が飛び出してきた。
就活に限らず、基本的に「普通でありたい」と願っているような気がします。「枠内の個性」しか認められていない、という思いが土台にあって。周りのみんなもそうなんじゃないでしょうか。
たとえば、わたしは漫画が好きなんですが、わざわざ大学の友達に明かさなくてもいいかな、とか。就活においても、理想とされる就活生像と異なる部分を持っていても、わざわざ口にしなくていいや、とか。
「枠内の個性」。
「個性」や「自分らしさ」を求めると言っても、野放図にやって良いわけではない。枠からはみ出した個性は自分自身も周囲も望まないし、尖り過ぎた個性がどのような命運を辿るのかは、学校生活が嫌というほど教えてくれている。
- シロクマ(はてなid;p_shirokuma)
- オタク精神科医がメディアや社会についての分析を語る



