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なぜ各政党は対中政策について思考停止に陥るのか――日中の「立憲主義」の現状をめぐって - 梶谷懐 / 中国経済

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日中に共通する立憲主義の困難性

・「近代」と「現代」のあいだ

これまで見てきたように、自民党が中国憲法と似ている、あるいは前者が後者の方に「歩み寄っている」のはなぜなのか、その答えを探ってみましょう。

ひとつの答えは、中国共産党と自民党の国家統治に関する発想が似ている、というものです。確かに、これはいかにもありそうなことです。繰り返しになりますが、社会主義国家である中国の憲法で定められた人々の基本権は、中国の構成員(「公民」)となることで初めてそれを享受することができる、とされており、「天賦人権説」の明確な否定のうえに立っています。

さらに、「法を統治階級の意思の表れとし、統治階級の利益を保護する用具と認識する法に関する階級意思論、統治の用具論を法理論の根底に据える」(高見澤=鈴木2009、82ページ)、つまり統治のための手段として法を考える、という発想の下に作られているのが中国憲法を含めた社会主義憲法です。

一方の自民党草案のパンフレット「日本国憲法改正案Q&A」の中では、「人権は神から人間に与えられるという西欧の天賦人権思想に基づいたと考えられる表現を改めた」ことが明確にうたわれています。また、国民の義務を権利として盛り込むなど、「統治のための手段として法を考える」という発想は自民党草案にも色濃く見られます。

ですが、もう少し複雑な側面もあると思います。というのも、多くの論者も指摘するように、国民主権が成立した現代における「立憲主義」は、君主制への対抗として生まれた近代のそれのように単純に「憲法によって権力を縛」ればよい、というものではなくなっているからです。

現代的な立憲主義の眼目をより厳密に言い直すなら、人権思想と違憲審査権を通じて、市民の活動のうち、「国家からは介入できない領域」を確保することにある、となるでしょう。

ここに、国民の意志を反映する形で成立している政権―これには中国共産党政権も含まれます―を制約する要因として働く「人権」とは、果たして国民の意志とはどのような関係にあるのか、という難しい問題が生じます。

ひとつの考え方は、人権を民主的な手続きを経て成立した政権であっても犯すことができない、民主主義の外在的な制約としてとらえるものです。この立場は立憲主義を、価値の多様性を認めるリベラルな社会を実現するために不可欠なものとしてとらえ、それを担保するためのいわば「切り札」として、人権概念に頼るものだといえるでしょう。安保法制に反対の論陣を張ったことで有名な長谷部恭男氏の議論がこの立場の代表的なものだ、と言えそうです(稲葉2008)。

長谷部は、立憲主義の基本的な考え方を、人々の生活領域を私的な領域と公的な領域とに区分し、後者では自分が大切だと思う価値観を括弧にくくり、社会のすべてのメンバーに共通する利益を発見する方途を冷静に話し合うことだ、と説明しています。長谷部は、このような立憲主義は「不自然」で、人間の本性に逆らうものだと言いきります。それでも、「各自が大切だと思う価値観・世界間の相違にもかかわらず、それでもお互いの存在を認め合い、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う、そうした枠組」として必要なものだ、というわけです(長谷部2006、9-10ページ)。

しかし、このような外在的制約として人権を理解する立場にもいくつかの問題点があります。ひとつは、そのような、民主主義に対して外在的な制約を設けることに、果たして人々を納得させうる根拠はあるのか?という点です。これについては、稲葉振一郎がαシノドスの「立憲主義と民主主義」と題された特集号の中で以下のように述べています(稲葉2016)。

それでは「人権」は何のためにあるのだろうか?
それはなぜ大切なのだろうか?
それを「人権は大切だ」という発想を我々はなぜ、どうやって獲得したのだろうか?
と。一つの考え方としては「人権が大切であることに(それ以外の)根拠なんかない!」と開き直ることであろう。「神様がそうお命じになったから」でもべつにかまわないのではないか。
(中略)
「神様がそうお命じになったから」よりも「専門家集団がそう判断したから」の方がよりも確固とした「人権」の根拠づけと考えられるかどうかは、なかなかに難しい問題である。

憲法の外在的制約論に関するもう一の問題点は、そのような国家権力に対する制約を「誰」が望んでいるのか? というものです。つまり、「国家権力は縛られなければならない」という主張は、結局特定の政治勢力が時の権力を批判する際の「方便」として用いられるに過ぎないのではないか。たとえば、αシノドスの同じ号の中で、法哲学者の大屋雄裕は次のように述べています(大屋2016)。

つまりここでの問題は、「我ら人民」の意思が常に振り返って見出されるようなものにすぎないという点にある。平時の政治が政治家たちの手に委ねられているとき、当然ながら彼らは(少なくともその信頼すべき割合は)「我ら人民」の意思を想定し・それに応えるように政治を行なおうとしていると考えることができるだろう。

(中略)

たとえば安倍政権が平和安全法制を提唱したとき、彼らはそれが「我ら人民」の意思をとらえると考えていただろう。もちろんそれに反対する側の人々もそうである。そのどちらが正しかったかは、結局のところ歴史において示されるよりない。

・立憲主義は象牙の塔から出られるか

近代的立憲主義に関してもうひとつ問題点があります。そこから導かれる社会像がどうも嘘くさい、庶民の感覚に合わない、というものです。この点を突いているのが、評論家の浅羽通明です。浅羽は近著『「反核・反戦リベラル」はなぜ敗北するか』の補論としてPDFファイルで配布された論考「本当は怖い立憲主義」の中で、次のように述べています(浅羽2016)。

「日本国憲法体制」というもの自体が、小中と高等学校、さらに大学のほとんどと法曹界、また革新政党、リベラルなマスコミなど「世間知らず」たちにのみ真に受けられてきた建前、「顕教」なのではなかったか。

企業の門から中へは日本国憲法は一歩も入れないと、よくいわれてきた(むしろ学校の門から一歩も出られないが実情かもしれない)。企業ばかりではないだろう。町内会はじめ、実務家と生活者がしがらみを結ぶほとんどの領域へ、「個の尊厳」や「人権」を絶対とする憲法は一歩も入れない。

これは、人権思想やそれを「外在的制約」としてとらえる立憲主義が、ほとんどの庶民にとって「よそよそしいもの」であり、したがってそれを前面に掲げても選挙に勝てるはずがないじゃないか、という批判です。これは確かに長谷部らの立憲主義による政府批判の弱点を突いているところがあると思います。

確かにに、民意も誤ることはありますので、民主的な意思決定が常に正しいというわけではありません。しかし、それならば「民意の暴走」を批判しがちな「専門家集団」あるいは「リベラルな知識人たち」の意見は常に正しいのでしょうか。控えめに言ってもそれは大屋の言うように「そのどちらが正しかったかは、結局のところ歴史において示されるよりない」という問題ではないでしょうか。

このように述べると、私も立憲主義に懐疑的な立場ととられるかもしれませんが、そう早とちりしないでください。私はむしろ、ここで述べたような現代の「立憲主義」が抱える難問は、実は中国において「憲政(=立憲主義)」と人権の擁護を掲げて権力=中国共産党と対峙しようとするリベラリズムの思想が抱えている問題とそのまま重なりあうのではないか、という問題提起を行いたいのです。前節でみたような自民党草案と中国憲法の奇妙な一致の背景についても、そのような観点から理解される必要があるように思います。

私が言いたいことをかなり乱暴にまとめてしまえば、次のようになります。人権を外在的制約としてとらえる、近代的でリベラルな立憲主義は「嘘っぽく」「庶民感覚に合わない」のはよく分った。

しかし、そのアンチテーゼとして「人民の意志」や「庶民感覚」を重視する方向性をどんどん追及してしまうと、国家と社会、そして憲法との関係は、どんどん現在の中国社会のようなあり方に近付いてしまうのではないか? そこに何らかの「歯止め」が働くという保証はあるだろうか?

・中国における「民主」と「憲政」の相克

上に述べたことが単なる思い付きではないことを示すために、中国における「憲政」をめぐる議論の現状についても触れておきましょう。

たとえば、中国の憲法論議に詳しい法学者の石塚迅によれば、中国社会における自由と人権の実現を目指すリベラルな法学者の中には、いわゆる「民主」化よりも権力の抑制に重点を置く「憲政」を最優先の課題として掲げるものが少なくありません。しかし、その主張は共産党政府に対し強い信頼を寄せる大衆にはなじみが薄く、学者の議論と現実の間とはかなりの乖離が生じているのが実情です(石塚2012)。

また、リベラルな憲法学者として知られる張千帆も、次のように指摘します(張2015、274ページ)。

より根本な問題は、中国の公衆の一般的な観念は常に現代憲政の原則を受け入れているわけではないということである。(中略)つまり、役人の腐敗と黒社会に対する民衆の強い憎しみは必ずしも政治の民主化の原動力になれるとは限らない。逆に感情的な司法を生み出し、法治に対する根気と寛容を失わせる可能性がある。

私は、ここで提起されている問題点というのは、上にみた浅羽あるいは大屋が提起している問題と基本的に同型のものだと思うのです。

むしろ、中国社会では「民意」が、――民衆暴動や権力による大衆動員を通じて――実際の政治に影響を与える力として日本以上にリアリティを持ってきたからこそ、それに対し「憲政」によるタガをどのようにはめるか、という議論がより切実性を持って語られている、という側面があるように思います。

こういった状況を踏まえるなら、日本においても、「権力を縛るもの」という憲法観を、外来の、かつ時代遅れの思想としてそう簡単に捨て去ってもよいのだろうか、という疑問が改めて沸いてくるのではないでしょうか。

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