- 2016年06月21日 12:05
「客観報道できないマスメディア」を20日付け紙面で徹底検証〜加熱する朝日と沈黙する読売
1/2今、この国のマスメディアにおいて、ある種の事案に対してひときわ顕著な報道傾向が見られます。
今回は当ブログとして、この興味深い報道傾向について、メディアリテラシー論的に読者と共に考えてみたいと思います。
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そもそも『報道』とは何か。
報道とは、出来事・事件・事故などを取材し、記事・番組・本を作成して広く公表・伝達する行為であり、言論活動のひとつであります。
報道を行う主体を報道機関、報道の媒体をメディアと呼び、中でも影響力が無視できない大規模なメディアをマスメディアと呼んでいます。
そしてメディアが伝達する「報道」を受ける側が、オーディエンス(一般大衆・読者・聴視者)すなわち我々市民であります。
そもそもメディアが報じる「報道」は、客観的という意味で本質的な限界性を有していることは重要です。
あるメディアが伝える「報道(記事)」は、事実そのものでは決してなく「(事実を元に構成され、コード化された表現」(representation)ということだといえます。
新聞記事であれ、TVニュースの原稿であれ、そこでは事実に基づき、メディア側が事実の側面を、与えられた制限(例えば字数制限やTVなどの時間制限)内で、事実を記号化(言語化)しかつ整理し「加工」を施し、オーディエンスに伝えることになります。
つまり「記事」は現実を反映しているのではなく、メディアの手によって、現実を「再構成」し、提示しているわけです。
現実を「再構成」する作業の過程において、誤謬性が必ず発生します。その出来事に対し、意図的でないにせよ、選択した事実だけ提供すること、記事の中で用いる言語の定義(しばしば曖昧であったりする)、事実の説明に、メディア自身の(時に記者個人の)判断を刷り込む(事実と自己意見の混合)、もちろんそれに事実そのものを誤報したりする可能性もあるわけです。
従って、ある「事実」の「報道(記事)」を伝えられた、我々オーディエンスは、その記事の内容を疑うことなく「事実」と無防備に受け入れてしまうのではなく、メディアをリテラシーする、メディアの報道内容を、できうる限り社会的文脈でクリティカルに分析し評価する能力が求められるのです。
我々はメディア報道を鵜呑みにせず、メディア・リテラシー(能力)を身に付ける必要があるわけです。
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今日、日本では、ある種の「事実」報道について、残念ながら、メディア自身の(時に記者個人の)判断を刷り込む(事実と自己意見の混合)報道が顕著なのであります。
「報道価値」("news value")という言葉があります。
どの事案が報道価値を有するのか、限られた紙面の中で、あるいは限られた時間の中で、どの記事を報道するのか、報道する価値を見出すのか、これはまさにメディアの自主判断に委ねられています。
これがある種の、つまりそのメディアの編集方針や考え方など政治的イデオロギー的機微に触れた場合、えてしてメディアはその事案に過剰に事実以上に「報道価値」を過大に与えてしまいがちです。
ときに過剰報道を繰り返し、いさんでメディア自身の(時に記者個人の)判断を刷り込む(事実と自己意見の混合)ことで「客観報道」を結果的に放棄してしまいます。
もちろん、逆の危険もありえます、
やはりある種の、つまりそのメディアの編集方針や考え方など政治的イデオロギー的主張に都合の悪い事実に触れた場合、えてしてメディアはその事案に対して過小な「報道価値」しか与えません、本来客観報道に値する国民的事案に対しても、消極的な報道にとどめるか、最悪の場合、あえて報道をしません、意図的に報道価値をゼロと見なしてしまうわけです。
これらの危険性について、無論メディアも無自覚なわけではありません。
「朝日新聞」「読売新聞」のそれぞれの「綱領」「信条」を確認しておきましょう。
- 木走正水(きばしりまさみず)
- 新聞・テレビの報道分析が高い評価を受けている。



