- 2016年06月19日 21:27
EU離脱をめぐる議員殺害事件が英国にとってもつ意味―試練に直面する「英国らしさ」
2/2「相手が異なる考えをもつこと」自体を認める作法
ただし、議会政治はどうしても「多数派が少数派を支配する」仕組みになります。したがって、議会制度を整えるだけでは、イラクなど多くの開発途上国でそうであるように、少数派の不満を恒常化させやすくなります。多数派が数を頼みに、少数派の思想信条など私的領域にまで踏み込んでくれば、なおさらです。
英国の歴史で特筆すべきは、「政府といえども個人の私的な領域が脅かされるべきでないこと」、「多数派による決定に対しても守られるべき少数派の権利」という考え方が体系化されたことです。これは後に自由主義と呼ばれる思想的な立場に帰結しました。名誉革命体制と議会派を擁護し、他方で専制を拒絶し、言論の自由や権力分立を唱えたジョン・ロックの『統治論』(1689)は、その象徴です。
議会政治を支持したロックは、『統治論』と同じ1689年に『寛容に関する書簡』を出版しました。ここにみられるように、自由主義には「思想信条など個人の私的な領域が他者に踏み込まれないことを尊重するべきであるなら、他人が自分と異なる考え方をすることをも受け入れるべきである」という考え方を含みます。それに同意できないまでも、他者が異なる考えをもつこと自体を尊重することは、議会政治が単に数の勝負になり、それによって社会の分裂が加速することを回避するために、そして「叩き割った頭の数の多い方」が物事を決める時代に逆行しないために、不可欠の要素だったといえます。
この自由主義が社会全体に広がるなかで、英国では他人が自らと違う考えをもつこと自体が、自明とされるようになったといえます。英国人や、文化的にそれと同じ系統に属するといってよい米国人などは、多くの日本人からみて意見をどんどん押し出してくる印象が強いですが、他方で彼らの意見に賛同しなくても、別に気分を害する様子をみせないことが珍しくありません。つまり、「他人とは必ずしも同じ意見であるはずがない」ことをお互いに受け入れ、そのうえで自分の意見を出し合い、議論し、可能であれば説得することが、自由主義的な行動パターンといえるでしょう。18世紀以降、ヨーロッパ諸国が革命や動乱に直面するなか、英国で総じて政治的な安定が保たれたのは、この政治文化が定着したからといえます。
これに加えて、自由主義は異なる考えをもつ主体である「個人」そのものを尊重する風土にも繋がりました。「英国人にとって家は城である」という諺があります。つまり、何人たりとも、正当な理由なしに、個人の私的な領域に踏み込むことは許されない、というのです。言い換えるなら、公的な領域ではともかく、私的な領域で何を考え、何をしようが、基本的には個々人の自由だというのです。もちろん、それにともなって発生する事柄には、個人が責任を負うべきという前提がつきます。これらに鑑みれば、ナポレオンやヒトラーなどの絶対的な権力者が近代以降の英国で生まれなかったことは、不思議ではありません。
「英国におけるテロ」がもつ意味
冒頭で述べたように、様々な留保が必要としても、個人的には、自由主義が発達したことは、英国が誇ってよい成果だと思います。少なくとも、各人が異なる考えをもつこと自体をお互いに認め合うことが、近代以降の「英国らしさ」だったことは確かです。その観点からすれば、冒頭に述べたように、「英国らしさ」を裏切ったのは、そして「英国の自由」を脅かしたのは、コックス議員ではなく殺人者だったといえるでしょう。
ただし、この事件は、ひとり英国だけの問題とはいえません。「思想信条を理由に英国人が英国人を殺害した」ことは、今の世界の縮図ともいえます。
それぞれが外部からの干渉なく、自分の考えをもつことは、思想信条の自由という名の権利といえるでしょう。権利意識が高まっているのは、多かれ少なかれ、どこの国でも同じですが、そのなかで「自分の権利」は意識されても、各人の意識において「他人の権利」は往々にして忘れられがちです。しかし、本来「個人の権利を認める」という原理・原則は、特定の個人を対象にするものではなく、自分の権利を主張するなら他人の権利も尊重することが欠かせません。そうでなければ、それこそナポレオンやヒトラーなどの「個人」の権利のみを認めた状態と何ら変わらなくなります。
しかし、様々なフラストレーションがたまりやすい現代では、これまたどの国でも、他者の権利や考えを否定する傾向が強まっています。ムスリムをはじめとする他者の権利を正面から否定する米国のトランプ候補の台頭は、その象徴です。「相手の考えを否定すること」が「相手を否定すること」になる状況からは、ロックが唱えた「寛容」を見出すことができません。
特に日本では、この二十年間に義務教育などで「自分の意見を言うこと」が強調されるようになった割に、「相手が別の考えをもつこと自体を尊重すること」がそれにともなっているかは疑問です。日本のように、もともと「空気」が重視され、集団のなかで個性を消したがる人が多い風土のなかで、さらに「相手が別の考えをもつこと自体を尊重する」という意識が薄ければ、それでも平気で言いたいことだけ言う少数の人間と、そもそも自分の考えをいわない多数の人間がほとんどになっても、不思議ではありません。それでは、何のために「自分の意見を言うこと」が強調されているのかが不明になります。「自分の意見を言うこと」とともに求められるべきは、「相手が別の考えをもつこと自体を認める作法」といえるでしょう。
※Yahoo!ニュースからの転載
- 六辻彰二/MUTSUJI Shoji
- 国際政治学者



