- 2016年06月14日 11:31
インテリは「貧困の人々」に弱い
■インテリ/ミドルクラスの「やさしさ」
この頃よく貧困層の人々への「愚痴」を聞くようになった。それらは、貧困層の人々は、わりと嘘をつく、わりとお金を持っている、わりとトラブルを起こす、支援しても支援損だ等で、身も蓋もない。
けれどもこれらは愚痴であって、決して偏見を背景にした悪口ではなく、その愚痴の前後にはいわば「愛すべき~」のような形容詞がくっついている。
クライエントの人々/貧困層の人々/社会階層からはみ出たり下のほうでさまよう人々に対して、主にミドルクラス(中流階級)以上の出身である支援者たちは、基本的にやさしい。
そのやさしさは、ヨーロッパ貴族階級が抱く「ノブリス・オブリージュ」的な、完全上から目線でありながらその「上から」では決して自覚することができない限りないやさしさをもったものではなく、ある意味「倫理的な」職業意識からくるやさしさだと僕は捉えている。
また、ミドルクラスは「インテリ」でもある。インテリ/知識階層になるためには、生まれつきミドルクラス以上で、自然と学歴を積み上げ、多彩な趣味をもつようになる背景が必要だ。
社会学者P.ブルデューのいう「文化資本」を持ち知識人として社会の中に位置づけられるようになるためには、それ相応の家庭背景が必要になる。
これら、倫理的にやさしく、自然に文化や知識を身につけた人々が現在、ある一定の偏差値以上の大学に進学し、人によっては専門資格やより高学歴を取得し、収入的にも安定したポジションについていく。そのひとつが「支援者」(医療・福祉・教育等)ということになる。
■紋切り的な像を嵌めこむ
ここでは、その予備軍である大学生もボランティアとして支援者層に属する前提で書いているが、それらミドルクラス・インテリ層は、昔から貧困層の人々に対してわりと紋切り的な像を嵌めこむことが多いようだ。
僕も人文科学や社会科学や文学の中でしか知らないものの、古くはロシアのインテリゲンチャやドストエフスキーの小説に出てくる人物群、日本では戦前日本の社会主義運動から60年安保・70年学生運動での諸事実・諸作品・諸人物などから浮かび上がってくる「貧困」「労働者」には、一定の「タイプ」があるように思えてきた。
それらは「清貧」とまではいかないにしろ、権力や資本家から搾取され虐げられ弱い人々として社会の外側にはじき出され差別されている。そうした理不尽に虐げられる人々の側に立ち、それらの人々の権利を擁護し確立する必要がある。といった、「弱者」に対する一定の捉え方だ。
僕自身もそうした基本的考え方を受け入れ、その立場からこのような原稿を書き、日々の支援の仕事を行なっている。理不尽な貧困や生きづらさ、また理不尽なたくさんの差別の押し付けとそこからの脱却(を応援すること)は、僕にとってライフワークだとも言える。
が、以下に書くとおり、それだけでは足りない。
■貧困の「紋切り」像
あっという間にそれ(貧困をつくりだす社会へ怒り)は「紋切り型」になってしまう。貧困とはこういうもの、生きづらさとはこういうもの、差別されるとはこういうものとして、それらマイノリティーであることを証明するためのさまざまな言葉たちが、すぐに「一般性」をもつようになる。
言い換えると、貧困等で困った立場にある人々を言語的に定義付けあるいは意味づけさせるために用意された様々な言葉のせいで、それらの人々が持つ「世界でただ一人だけのその人独自の単独的なありよう」を抹消してしまうという力が働いてしまう。
その結果、貧困とはこうだ、非正規雇用とはこうだ等の「紋切り」が現れる。
言葉をもつインテリの人々たちはそれらの紋切りに違和感を抱きながらも、日々の仕事が忙しく深く考えない。
また一部のインテリの人たちは、そうした紋切り言葉をより強化し理論化させていく。
いや、多くの場合、理論化された最初のもの(たとえばマルクスの『資本論』)は実は紋切り言葉をはみ出るさまざまな事象(単独的あり方)を捉えようともがくのだが、それを汎用化させる普通のインテリ層が単独的言葉たちを無意識的に捨て去ってしまう。
また多くの心やさしき若きインテリたちは(学生や支援者)、紋切り像を単純に信じ、たとえば目の前に現れた相対的貧困の子どもや若者たちに対して限りなくやさしく接し、子ども・若者にとってこれが「楽しい」と想像する時間や場所を演出する。
■「黒」が知られると人々も楽になる
その時間や場所の一部に、今は「子ども食堂」という名前が名付けられているかもしれない。が、そうして紋切り的に自分たちを捉えられたとしても、単独的に存在する人々(ここでは貧困層の子ども若者)は「生」そのもののの発現を停止することはできない。同時に、ホンネの部分は、自分たちを紋切りとしてしか捉えない人々には決して晒さない。
ここでいう貧困層の人々は、時にはいきいきと嘘をつき、自然なふるまいで人間関係を行なった結果トラブルを起こす。それがその人そのものであり、それが「生/la vie」というものだ。
だからこそ支援者は、心理学や精神医学や社会福祉や経済学以上に、音楽や映画や詩や小説やヒップホップや写真や落書きや鼻歌などの「アート」に日々接する必要がある。アートとは「単独性」の別名だからだ。
専門知識で一般性を学び、アートで単独性に接する。それでも貧困層の人々に対する独特の紋切り感やコンプレックスが消えることはないだろうが、自分たちのズルさや黒さも知ってもらえると、クライエントの人々が実は楽になる。
だから、支援者も「黒」であっていいと僕は思う。愚痴も、ユーモアと未来への支援戦略ががあればいいと思います。★
※Yahoo!ニュースからの転載


