- 2016年06月07日 09:51
英語は「地味」だから居心地がいい――英米文学の味わい方を知る / 英文学者・阿部公彦氏インタビュー
3/4――SNSなどを見ていると、仕事の辛そうな人から、投稿が詩的になっていくので、「労働は人を詩人にさせるのだなぁ」と思っていたのですが、私がここで感じていた「詩」は、「成長」「出会い」「感謝」のような定型の繰り返しだったのだなぁと思いました。ちなみに、他人の「詩的」なものをみたときに、意地悪な気持ちがむくむく湧き起ってくる人が多いと思うのですが、なぜなのでしょうか。
日本の学校教育で紹介される「詩」は、「自分の大切なものを恥ずかしいけど人前にさらす」タイプのものが多いからかもしれません。「こんな私だけど許してね」みたいに、恥ずかしそうに言葉を差し出してくる。これはロマン派以来の、「独特な私」を示すという詩の作法に沿ったものです。つまり、ロマン派なのです。そして、そこがまさに意地悪心をくすぐる。
そうした詩はときに「自分に酔っている」感じを伴い勝ちです。J・S・ミルは、詩はどこかから漏れ聞こえてくる(overhear)ものだと言っています。うまい言い方だなと思います。読者に直接語りかけるのではなく、詩人が自分の世界に浸って語っているものがたまたま聞こえてくるのが詩であると。その酔いにうまく共感できれば力をもらうこともできるけれど、ときに他人の酔いというものは面倒くさいだけだったりしますよね。うるさい、とか。息が臭い、とか(笑)。
そんなわけで、詩には書き手の生理が出るので、読むときはその匂いを受け入れることができるタイプのものから手に取ったほうがいいと思います。逆に自分で書く分には、お酒と一緒で量を守ればセラピーになることもあるだろうし、上手にすっきりすることもできるかと思います。
まあ、でも、周りの人からみると、変な感じがしますよね。現代人は文章の上であまり感情的になることを許されていないのでしょう。感情を裸で出すことを許されなくなってきた。都合のいい感情、いかにも祝祭的だったり、メディアの定型に合う感情なら、やんやの喝采とともに受け入れられるけど(サッカーでゴールを決めたときの喜びジェスチャーなど)、もっと薄暗い感情とか、おさまりの悪い厄介な感情をうまく表現する場がなくなってきた。聞かされる方がすぐに「こっちは服をきているのに、あいつは裸になってるぞ!」と文句を言うからです。
そういうわけで、今はSNSのようなツールが、詩がかつて担っていた領域を肩代わりしてくれるのかもしれません。お金が発生するわけでもないのに、そういう場で人々が自分のことをどんどん書いてしまうのは、感情表現を身体が欲しているからではないかと思います。
小説を役立てよう!
――英文学ならではの魅力はありますか?
英文学に限らず、外国語で文学を読むと、言葉の使い方の独特さに敏感になれると思います。日本語だとわれわれは当たり前に読んでしまうので、どうやって書いているのかに無頓着になりがちです。
当然のことですが、文章は書き方によって心に響いたり、はっとさせてくれたりします。同じ内容でも、その形によって効果や伝わり方が全然違う。外国語なら、ふだんよりも注意深く読むことができるので、そうした言葉の形をより繊細に感じられるはずです。英語は多くの人にとって比較的なじみのある外国語ですから、まずは英語の文章、とくに文学作品を読んでみるのが、いろいろな意味で英語の「効能」を知るのに便利だと思います。
――高校生におすすめする英文学の小説はありますか。
英文学は時代によって楽しみ方が違います。まず、近代的自我を持った登場人物が描かれはじめたのはシェイクスピアが活躍した16世紀~17世紀だったと考えることができるでしょう。そのシェイクスピアで注目してほしいのは言葉の力です。英語はこんなにも魅力的に響きうるのか、とつくづく思わせてくれるのが彼の文学作品なのです。手始めに、シェイクスピア名台詞集成みたいなのをのぞいてみるだけでも悪くないと思います。ぴしっと、あるいは、ゆるっと決めてくれます。
もちろん、翻訳で読んでも面白いです。それから高校生におすすめなのは19世紀の小説です。近代小説が生まれたのは18世紀だと言われていますが、19世紀になるとこれがぐぐっと洗練されます。
その読み所はこういうところです。小説の語り手は、本当は分からないはずの登場人物の内面にどんどん踏み込んで、それをあばいていく。他人の気持ちなんてわかりっこない。それでも、まるで見てきたかのように書く。類推したり、想像したり、勝手に決めつけたり。もともとわかるわけのないはずのものですから、外れることもあるし、あたることもある。
でも、小説の語りの中で展開される語り手と登場人物のそんな格闘を見ていると、19世紀という時代は人と人が分かり合うことについて徹底的に考えた時代なのだなあということが実感とともに感じられてきます。これだけでも収穫ではないかと私は思うのです。
さらに、19世紀のイギリス小説には、個人の欲望と社会の決まりが対立するさまがたっぷりと描かれています。たいていは個人が挫折するのだけれど、それを見ていると、そもそも個人の欲望とはどういうものなのか、どうして社会と個人とは折り合いがつかないのかといったことにも考えが及ぶようになります。
思春期はまさにそういうことを考える時期でしょう。自分のやりたいことと制度とがぶつかることが多い。そこに小説的な思考をもっと役立てていいと思うのです。
20世紀の小説になると、19世紀にやったことと違うことをしようとやや実験的になっていきます。20世紀のはじめに流行ったのは、無意識にある言葉以前の心の動きを言葉にしていこうとする試みです。そういう小説は、ぱっとみると何を言っているのかわからないということになったりする。最初は難しいかもしれませんが、19世紀小説を読んだ後に読むと、「そうかあ!」と納得できると思います。



