- 2016年06月07日 09:51
英語は「地味」だから居心地がいい――英米文学の味わい方を知る / 英文学者・阿部公彦氏インタビュー
2/4「詩」ってなんだろう?
――先生は英米文学、とくに英米詩がご専門とのことですが、英米詩を学ぶとどのようなことがわかるのでしょうか。
英文学の研究は詩の研究からはじまりました。というのも、そもそも現代の文学批評そのものが、詩をどう読むか考えることからはじまったからです。
詩はかつては、言葉を伝える装置として大きな力を持っていました。共同体の拘束力が強かった時代には、詩の「型」がそのまま威力につながったのです。社会のルールの縛りが強いと、コミュニケーションのルールも明確であることが求められたのです。そういう意味では、詩は人間の持つ原始的な集団性とつながっていると言えます。
また、それに加えて、印刷術など情報を記録する技術がいろいろ発達する前は、詩という「入れ物」が記憶を助けるという役割もありました。
でも、現代に近づくにつれ、人は昔のように詩とはつきあえなくなってしまった。かつてのような形でごくミクロな社会にがんじがらめに縛られるということはなくなり、コミュニケーションのコードも多様になった。詩は、本来「型」の拘束のおかげで威力を発揮するものでしたから、「型」の拘束が弱まると、そういうものを体験するための私たちの用意がなくなってくる。それで詩が読めなくなってくるわけです。
これは、一面では、詩が必要なくなったということです。共同体の拘束力が弱まり、「個人」なるものが生まれて、集団で行動するより、個人で行動したり発言したりすることが求められるようになった。
また、記録のために詩の型に頼る必要もなくなった。近代社会は、少なくとも表向きは祭儀のようなものから距離をとって世俗化していくので、型に縛られたしゃちこばった儀式性がわずらわしさとしか思えなくなってしまう。その結果、詩は「?」というものになる。謎めいて神秘的なものとしか見えないのです。詩が持つさまざまな約束ごとも、単なるコミュニケーション不全のあらわれと見えてしまう。
実際、いまのぼくたちも詩って読みませんよね。書く人はいるし、無理やり学校では読まされますが、大人になって趣味で読んでいる人はかなり少ない。現代という時代が、詩の文化を失いつつあるのはまちがいないです。19世紀のおわりにもすでにそうした危機は感じられていました。とりわけそれは、社会が個人の感情表現をどう処理するかという問題として感じられていました。そんな状況で、20世紀になると、感情表現を理知的な言葉でほぐして整理し理解するという形で批評のことばが生まれたわけです。
詩は普通の言葉に比べると曖昧です。だからこそ、分析しがいがあった。いろいろ解釈をしてみると、言葉を分析することがかなり創造的な作業だと示す人がイギリスから出て、その後も詩を読み解く方法が洗練されていきます。さらに、その方法は小説や社会現象にまで応用できるものと考えられるようになります。
――「詩」と呼ばれるものは世界中にあると思うのですが、どういうものが詩なのでしょうか? 専門家の間で決まっているものなのですか?
これは面白いところです。時代によって変わります。100年に1人くらい「これからは、こういう詩が書かれるべきだ」と定義する人があらわれるんですね。たとえば、17世紀の英国では心地の良いレトリックや言葉の響きで人々を楽しませながら教えをたれるものが詩であるとされました。つまり、「お説教する」という要素がけっこう強かったのです。
ところが18世紀、19世紀あたりから個人主義の時代になります。そうなると、自分の中の秘めた感情をあらわすものが詩であり、読者はそれに共感するものだとされるようになります。詩人は次第に「独特さ」を競い合うようになる。日本で今書かれている口語自由詩も、そのひとつの逢着点と言えます。
さっき言ったように、18、19世紀以前の詩はもっとパブリックなものでした。詩は詩人が自分の力だけで生み出すものではなかった。みんなでシェアされたルールのもと、天啓を受けた人が書いた。そのころは詩の女神がいて、詩を書かせてくれたわけです。昔の詩を読むと「おお、詩の女神よ」というようなことが書かれていて、いま読むと、変だなぁと思うかもかもしれませんが、昔はそれが決まり文句だった。
今でも、詩人は、詩は自分だけの力で書くものではないと分かっている。やっぱり何かが降りてくるわけです。でも、今だったら「神様」ではなく「無意識」と言うのかもしれません。とにかく、意識ではなく「よくわからないけど書けちゃった」方がうまくいくわけです。
20世紀になると形式さえ捨てるようになっていきます。そうすると、なにが詩なのか見た目でわかる境目がどんどん消えていく。こうしたことも、詩の衰退につながったのかもしれません。何しろ、「詩的なもの」を表現する時に、詩という形式をとる必要がなくなったわけですから。洋服だっていいし、食べ物でもいい。「詩的な料理の盛り付けだね」なんてことも言われたりする。
だから、今の時代、そもそも「詩的なもの」とは何であるのかが問われているのです。今でも「詩的だね」と言われると、普段詩を読まない人でもなんとなく納得しちゃう。でも、ふと考えてみると、この「詩的」とはいったい何なのか、ということです。
――「詩」の定義が変わってきたので、なにが詩なのか曖昧になってきたのでしょうか。
そうです。ただ、急に具体的なことを言いますが、絶対的にありそうなのは、詩が繰り返しの原理に基づいているということです。たとえば、英文学からの例をあげると、ウィリアム・ブレイクに「虎」(‘Tyger’)という作品があります。
Tyger Tyger, burning bright,
In the forests of the night;
What immortal hand or eye,
Could frame thy fearful symmetry?
In what distant deeps or skies.
Burnt the fire of thine eyes?
On what wings dare he aspire?
What the hand, dare seize the fire?
And what shoulder, & what art,
Could twist the sinews of thy heart?
And when thy heart began to beat,
What dread hand? & what dread feet?
What the hammer? what the chain,
In what furnace was thy brain?
What the anvil? what dread grasp,
Dare its deadly terrors clasp!
When the stars threw down their spears
And water’d heaven with their tears:
Did he smile his work to see?
Did he who made the Lamb make thee?
Tyger Tyger burning bright,
In the forests of the night:
What immortal hand or eye,
Dare frame thy fearful symmetry?
この詩のひとつの注目しどころは、Tygerという語が何度も出てくるということです。Tygerの繰り返しこそが威力を生んでいる。同じ言葉を繰り返されたってしょうがない、ちっとも情報が増えないじゃないかという人もいるかもしれませんが、詩というのはまさにそれが売りなのです。
つまり、情報は増えないのに、Tygerという語を繰り返していくうちに魔法のように、あるいは呪文のように、Tygerの意味もかわっていくし、何かこちらの心の中にむくむくと変なものが芽生えてくるのです。
どうやら詩には、こんなふうに反復を繰り返しながら何かを浮かび上がらせたり、こちらを変な気分にさせたりする力があるようなのです。英語の詩では、何かに呼びかけて、その呼びかけの作用で魔術的な作用を引き起こすものも多いです。
実際、この「虎」という詩、聞いているうちにむくむくと変な気分がわき起こってきませんか?
――はい! すごく力を感じました。こちらの首根っこをつかまえられたような気分です。
さっきも言ったように、そもそも詩は紙がないところに言葉を記録するための装置でした。重要な情報を後世に伝えるために、言葉にリズムを与えて、印象に深く残すようにしたのです。日本語には7・5調のリズムがありますし、英語も固有のリズムがあります。
しかし、印刷の技術が開発されると事情が変わってきます。言葉が印刷され、いくらでも増刷することが可能になると、繰り返すことよりも、効率よく情報を伝えることが求められるようになる。それとともに、繰り返しがもっていた呪術的な作用も忘れられていきます。
散文は繰り返しをすごく嫌います。新聞記事をみても、1行目と4行目に同じことを言っていたら変ですよね。あるいは語尾なども、「~だった」「~だった」なんていうふうに単調に繰り返すのを避ける。散文では、増えたり、展開したりすることの方がいいことなのです。詩では繰り返しが良しとされていたけれど、散文では繰り返さずにどんどん移り変わり、変化することが大事になる。
今、ぼくたちは同じことを繰り返す人を、変人だと思います。まちがえて同じ人に同じ話をすると、「それ、昨日言ったよ」といちいち指摘される。でも、何度も同じことを繰り返すような知の形もありうるのかもしれない。少なくとも、昔はありました。昔の人と今の人では、知のルールが違うのだと思います。
文部科学省出身で「ゆとり教育」を導入した寺脇研さんが書いた『文部科学省―「三流官庁」の知られざる素顔』(中央公論新社)という本があります。むかし、文科省は三流官庁と呼ばれていたそうですが、寺脇さんはそんな官庁が一流と言われるようになるために改革したんだ、と言う。
なぜ文科省は三流だったのか。それは「メンテナス官庁」だったからです。今ある制度を維持しけばいいと思っていた。学校などに予算をいつも通りに配分し、問題があったら修正していけばよかった。ですが、寺脇さんはそれを企画型に変更した。
そこに導入されたのは、こんな考え方です。なにか新しいことを言えば、お金をやる、でも新しいことを言わなければお金はやらない、むしろ減らされる、と。おかげで文科省の官僚の方々もどんどん企画を提案するようになったし、その下にある大学もそうせざるをえなくなった。それが現状です。教育が企画型になった。
でも、果たしてそれでうまくいくのでしょうか。研究だけならまだわかりますが、教育の大事な部分は詩と似ているとぼくは思います。つまり、同じことを繰り返すことで伝える、という知の形がある。さっきの「虎」の詩と同じで、繰り返しているうちに、新しいことが生まれたり、いつの間にか繰り返されていることの意味が変貌したりする。
そういう部分はせかせかするのをいったんやめ、心を落ち着けて時間をかけて見ないとわからない知の要素で、でも、人間の生命の安定性を深いところで支えているのもそういうものではないかと思ったりします。新しい提案を打ち出すのもたしかに必要ですが、それだけでは掬いとれない部分にもう少し目をやってもいいのではないかと思うわけです。
今の文化は、つねにより新しいものを追い求めていきます。この流れはかわらないでしょう。でもそれとバランスをとるものがどこかで必要になる。詩は昔ながらの知の形としての反復の威力をその芯にもっていますから、前のめりになりがちな今の社会に対する有効なアンチテーゼになるかもしれません。
とはいえ、まぁ、あまり勝ち目はないでしょうけどね(笑)。メディアの中で詩が生き残っていく余地はあまり無いだろうなぁと感じています。SNSでどんどん流れていく言葉の活気に慣れると、1分後には違う言葉が出てくる感覚がふつうになってしまいます。そんな流れの中にいつまでも変わらないものがあると、「な~んだ。まだ同じ事を言ってる」となる。気持ちが忙しいのです。
急ぎ足の人から見ると、詩集の言葉なんてよどんでいるようにしか見えない。ぼくは普通の人よりだいぶ詩を読んでいると思うのですが、それでもついつい忙しい気分に陥っているので、詩を読むときにはスイッチの入れ替えが必要です。



