- 2016年05月17日 00:00
【読書感想】キリスト教と戦争
2/2結局のところ、宗教としての理想は理想として、現実世界で「字義通りの愛の実践」をやるのは難しいのです。
著者は問いかけています。
「もし本当に何をされても『赦す』ような宗教があったとしたら、それが世界中に広まることが可能だと思いますか?」
まあ、難しいですよねそれは。
徹底した「不害」を説くジャイナ教が、世界で多くの信者を得られなかったように。
この本のなかでは、「テロとの戦い」を容認したカトリックや、「農民たちを殺し尽くせ」と言い放ったマルティン=ルターのエピソードなど、古今の「神の名のもとに戦争を行ってきた人々のレトリック」の数々が紹介されています。
でも、こうしてみると、「嘘つき!」というよりは、「人間が人間であるかぎり、戦争というのは、避けては通れないものなのかな」とも思えてくるのです。
歴史のなかには、キリスト教の信仰に基づいて、たしかに、多くの人に無償の愛を注いだ人もいるわけで、マザー・テレサさんや、アウシュヴィッツのコルベ神父の名前が挙げられています。
さて、カトリックやプロテスタントを問わず、キリスト教徒はこれまでさまざまな形で戦争や暴力に加担してきた。戦争と平和に関する議論においては、しばしば、「キリスト教徒は言っていることと実際にやっていることが違うではないか」という批判がある。だが、その批判は必ずしも正当ではない。というのも、見てきたように、カトリックもプロテスタントも、そもそも場合によっては暴力や武力行使をはっきりと是認することがあるのだから、キリスト教徒たちの言行は、おおよそのところではむしろ一致しているのだと開き直ってもよい。
聖書に「右の頬を打たれたら左の頬をも向けよ」と書かれているから、キリスト教徒はみあ、せめて建前上は絶対平和主義であり非暴力主義者だろうと考えるのは、「宗教」に対しても「戦争」に対しても、認識が甘いのである。もちろんなかには、いかなる暴力をも拒否して平和主義を貫徹する人たちもいた。今でもいる。しかし、そうした彼らは、キリスト教全体のなかでは、あくまで少数派であり、珍しい連中に過ぎないというのが現実である。
「聖書」というのは、表現が抽象的であるため、多様な解釈が可能であり、実際にそうされている、というのもあるんですよね。
聖書にはっきりと「いかなる理由によっても戦争をしてはいけない」とか「暴力はどんな状況でも禁じる」などと書いてくれていれば、話はもっと簡単であった。ところが、聖書では、「敵を愛せ」などと、良くも悪くも常識とは異なる表現がなされているものだから、では、やむをえないかぎりの実力行使でもって悪人を善の道に導くならば、それは敵に対する「愛」の行為に相当するのではないか、とか、無条件の非暴力主義は時には悪を放置・黙認する無責任な姿勢であり、愛に反する態度でもありうるのではないか、などと、議論が錯綜するのである。
聖書というのは、それぞれの人生や社会状況と重ね合わせて読まれる書物である。人や社会は、同じ教典を読んでいても、さまざまな人生経験を念頭に、またさまざまな平和を思い描きながら感じ、考え、行動する。キリスト教徒といえども、誰もが必ず「愛」と「暴力」は矛盾すると考えるわけではないのである。
オウム真理教の信者たちは、「それが相手のためなのだ」と信じて「ポア」しようとしていました。
率直なところ、本当にそんなこと信じていたのだろうか、と信仰を持たない僕は考え込んでしまうのですが、彼らは、それが「善行」であり、「相手のため」「人類のため」だと思っていたのでしょう。
宗教絡みとなると、「自分たちの解釈では『善い』こと」が、世間一般の常識からすると、とんでもない悪事になることもあるのです。
そもそも、宗教云々に関わらず、人は「人殺しをする」ために戦争をするわけではなくて、「自分たちが生きる場所を守るため」「世界を救うため」に戦争を行うのだよなあ。
この新書のなかで、こんな話が紹介されています。
戦争や争いにはさまざまな原因が考えられてきたが、その一方で、何らかの目標のために戦争をするという発想そのものを疑う研究者もいる。例えば、イスラエルの戦争研究者マーチン・ファン・クレフェルトは、『戦争の変遷』(原書房)のなかで、戦争が目的を達成するための一つの手段に過ぎないというのは正しくないとし、実際はその逆で、「人々はしばしば戦うために目標をつくりだす」という。
クレフェルトの戦争論についてはあらためて詳細な検討が必要だが、この「人々はしばしば戦うために目標をつくりだす」という指摘は、宗教的な戦争やテロを考えるうえでも重要な視点だと思われる。彼の「戦争は宗教を継続する行為である」という議論も、一つの見方として興味深い。
極論すれば、平和で豊かな時代には、宗教の「必要性」というのは薄れてくるのもまた事実なのかもしれません。
しかしながら、物質的に豊かになっても、今度は「精神的に貧しくなった」というような思いが蔓延してきて、新しい宗教が流行ることもあるのですから、人間というのは、どんな状況でも「戦い」を止められない生き物であるような気もするのです。



