たとえば一口に「無駄削減」と言っても日本の場合と余所の国とでは向いている方向が正反対なんじゃないかという話を先月に書きましたが(参考)、似たようなことは他の言葉でも当てはまるでしょうか。思い当たるのは「もったいない」とかですね、何を以て「もったいない」と扱うか、文化圏によって結構なズレがあるような気がします。
「日本には資源がない」というのもまた一種の合い言葉と化していますけれど、資本主義における資源の有無の重要性は果たしてどの程度なのでしょう。確かに「資本のない国」にとって「資源の有無」は命運を大きく左右する要素です。資源でもなければ外貨を獲得できない、外貨を獲得できなければ経済を発展させようにも「元手」がありませんから。元手を手にできなければ、商才があっても金儲けは出来ないわけです。
では反対に元手がある、資源はさておき「資本がある」国の場合はどうなのでしょうか。確かに資源があれば、知恵を絞らずとも容易に利益を上げる機会が得られるとは言えます。しかし、資源から得られた利益が国全体の経済を支えているのは小国や発展途上国の話、一定以上の規模の先進国は資源ではなく「資本」から利益を上げているわけです。資源の有無の重要性やいかに?
19世紀ぐらいまでなら資源を輸出して金銭を自国に蓄積させる経済モデルは有効であったのかも知れません。一方で近代以降の「資本主義」の時代において重要なのは資源ではなく資本である、まず資本を獲得するために資源を必要とする国はあるにせよ、既に資本の蓄積を終えている国にとっては、資源を売ることよりも手元の資本を活用して経済を循環させることの方が大切になってくると言えます。
しかるに日本の経済言論は今なお資本主義の時代に到達できていない、言うなれば「資源主義」の段階に止まっているのかな、と感じることもあります。資本をいかに活用するかよりも、限りある資源よろしく蓄積させることの方を是としているのですから。お金(資本)というリソースを「眠らせておく」ことを「もったいない」と思うのか、それとも「使う」ことを「もったいない」と思うのか――どうも日本の場合は後者のようですが、その結果として日本は世界経済の成長から取り残され、ひたすら内部留保だけが増加するという孤高のガラパゴスと化してしまいました……