- 2016年04月21日 18:08
意識高い系は「闇」を知らない
■「意識高い系」いろいろ
一般社団法人とはいえ広義の意味ではNPO(非営利組織)に含まれるので、その代表である僕なども、この頃は「意識高い系」に位置づけられるのかもしれない。
いつからこの言葉が流通し始めたのははっきりしないものの、東日本大震災以降ということは確かだろう。
東日本大震災以降、雨後の筍のようにボコボコ現れた「社会貢献する人々」に対して、その理念そのものには共感するものの、どこかで違和感を抱いてしまう市民感情がある。
その市民感情が、直接「社会貢献する人々」を攻撃することなく現れたことばとしてこの「意識高い系」があると僕は位置づけている。
また、昨年盛り上がった、反安保運動を象徴するシールズという学生組織に対する微妙な感情も、この「意識高い系」という皮肉な言葉が集約している。
シールズは、従来の市民運動とは異なり、そのブランディング手法やファッション戦術等、これまでのコテコテな日本の市民運動とはあきらかに一線を画していた。
その「画し方」はある意味爽快なほどこれまでとは異なっていたのだが、その表象に伴う独特な印象は、ルサンチマンとも言っていい歪んだ感情を伴うことになった。
それは、「ぼっちゃん嬢ちゃんのあそび」とか「偏差値二流大学のあがき」等、読んでいて気持ちいいものではなかったが、シールズに対する独特な憧れと反発はそこにあったと思う。
その歪んだ感情は、シールズを「意識高い系」として位置づけてしまう動きに繋がつていったと僕は解釈している。
■「闇」そのものが人間
なぜ「意識高い系」というカテゴリーを我々はつくりあげたのだろうか。
言い換えると、なぜ「意識高い系」な人々は意識高い系な人々としてうっとおしがられているのだろうか。
それはなんとなくわかる。
意識高い系は、無邪気すぎる。無邪気に、「困った人々」や「弱い人々」を支えたがる。
困った人々や弱い人々は、意識高い系の人たちが思うほど、実は困ってもいないし弱くもない。いや、客観的には、貧困や児童虐待やドメスティック・バイオレンス等で困っている。困ってはいるが、意識高い系の人々が思うほど、「直線的に」(単純にというかストレートに)困ってはいない。
そのお困り感を何かに転移しているし、誰かのせいにしている。そうした、非常に複雑で非常に「人間的な」葛藤があるのだが、それらの複雑さは意識高い系の人々には残念ながら(というかラッキーにも)伝わらない。
また、意識高い系の人々は、実は社会問題そのものをあまり知らなかったりする。
たとえば、貧困問題や児童虐待の問題の奥深くに存在する、「人間ならではのどうしようもない問題」についてはそれほど考察を深めていなかったりする。
ドストエフスキーや中上健次や村上龍の小説を読んでいなくとも、我々人間は、「闇」に覆われた存在だ。
いや、闇そのものが人間だと、僕は解釈している。
■「闇」を知らいない社会の貧弱さ
そこを、「社会貢献」に囚われてしまった現代の日本の人々はなかなか想像できない。が、「闇」をリアルに知らないに越したことはないので、闇を知っている人たちはそんなにうるさいことは言わない。
その代わりに、「意識高い系」という皮肉な言葉をつかう。
また、「闇」をリアルに知らなくても、あまりにストレートな社会貢献系の「善」の言説に対して違和感を感じる人々は、これらストレートで無邪気な社会貢献の言葉たちに対して斜に構え、独特な位置づけをする。
それが、「意識高い系」という言葉だと、僕は思う。
「意識高い系」とは、社会貢献が当然となった社会につきまとう必然的な言葉であり、むしろこうした皮肉な言葉がある社会のほうが健全だと僕は思う。
ブライトネスには常にダークネスがくっつく。その、ダークネスの日本的表象がこの「意識高い系」だと僕は位置付ている。
それにしても、「闇」を知らない社会の貧弱さ、ですね。★
※Yahoo!ニュースからの転載


