- 2016年04月08日 14:29
八田氏国賠訴訟、「控訴違法」で窮地に追い込まれた国・検察
1/2美濃加茂市長事件では、現職市長を起訴した収賄事件で一審無罪判決を受け、組織の面子だけにこだわって無謀な控訴をした検察は、控訴審での立証が破たんし、現職市長の潔白が一層明白になるという、「泥沼」に追い込まれている【検察にとって「泥沼」と化した美濃加茂市長事件控訴審】。その一方で、検察の「不当な控訴」をめぐるもう一つの裁判が佳境に入りつつある。
それまでは有罪率100%だった東京国税局が告発し、東京地検特捜部が起訴した脱税事件で、一審無罪判決、検察官控訴棄却で無罪確定という全面勝利を勝ち取った八田隆氏(【勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか】)は、2014年5月16日、国税局の告発、検察の起訴、控訴が違法だったとして、国に損害賠償を請求する訴訟を提起した(【八田隆氏が国家賠償請求訴訟で挑む「検察への『倍返し』」】)。
この訴訟では、八田氏の弁護人として八田氏の刑事裁判で検察と戦った小松正和弁護士、喜田村洋一弁護士に、元裁判官の森炎弁護士と元検察官の私(対談本【虚構の法治国家】(講談社の共著者))が加わって結成した原告代理人弁護団は、告発・起訴・控訴それぞれが違法であったことを主張し、被告の国側と戦ってきた。(八田氏は、それを「ドリーム・チーム」と称している。【#検察なう(393)「国家賠償訴訟に関して(2)~代理人ドリーム・チーム結成!」】)
美濃加茂市長事件で、主任弁護人として、検察の不当極まりない控訴を受けて立ち、戦っている最中の私は、八田氏の国賠訴訟でも、検察の控訴の違法性(控訴違法)の主張を主に担当している。「無罪判決に対する検察の控訴」をめぐる戦いを、まさに同時並行で進めてきた。
美濃加茂市長事件では、贈賄供述者の控訴審での職権証人尋問という異例の展開に、検察は「証人テスト」も封じられて手も足も出せない状況にある。(この検察の惨状については、既に【前掲ブログ】で詳述。)
八田氏国賠訴訟での「控訴違法」をめぐる争いでも、検察の意向に沿って行われていると思える被告・国側の対応が混乱・迷走を続けており、原告が求めている控訴検察官の証人尋問をめぐって、国側は窮地に追い込まれている。
米国では、一審で無罪判決を受けた被告人に対して、検察官が控訴を行うことは、「二重の危険の禁止の法理」に反するとして、許されていない。我が国でも、学説では、「何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。また、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない。」と定める憲法39条の規定が、米国の「二重の危険の禁止の法理」に由来するものだとして、無罪判決に対する検察官控訴は憲法に違反するとの見解が有力に主張されてきたが、最高裁判例では合憲とされ、実務上は、容認されてきた。
しかし、違憲ではないとしても、野放図に認められるべきではないのは当然だ。
三審制の下で、被告人の側が、有罪判決を不服として上級審による救済を求めることが認められるのは当然だが、検察官が、一審の無罪判決を覆そうとして控訴することは、いかなる場合にも許されるというものではない。少なくとも、検察の実務においても、検察官側からの控訴は、検察内部での慎重な検討を経て、控訴審で新たな証拠を請求し、採用される可能性がある場合など、一審無罪判決が覆せる十分な見通しがある場合でなければならないと考えられてきた。
そして、裁判員制度の導入に伴って、控訴審のあり方の見直しなどが議論され、控訴審では第1審の判断を尊重すべきという主張が行われたことを受け、平成24年2月13日の最高裁判決で「控訴審が第1審判決に事実誤認があるというためには,第1審判決の事実認定が論理則,経験則等に照らして不合理であることを具体的に示すことが必要であるというべきである。」とされた。
これによって、無罪判決に対する検察官の控訴も、さらに制約を受けることになった。
控訴審が一審の無罪判決を覆すことができるのは、「一審判決に事実誤認がある」と判断した場合だ。最高裁で、その「事実誤認」について、「論理則、経験則等に照らして不合理であることを具体的に示すことが必要」との判断が示されたため、検察官が「事実誤認」を理由に一審無罪の破棄を求めて控訴するためには、一審判決が「論理則、経験則に反していること」を具体的に主張できることが必要になったのである。
ところが、八田氏の脱税事件では、検察官控訴を慎重に判断する検察内部における慣例も、平成24年最高裁判例による制約も、完全に無視された。
この事件の控訴審では、検察官は、一応「新証拠の請求」を行っているが、すべて一審段階で存在していた証拠である。控訴審で請求する証拠については、「一審で請求しなかったことについてやむを得ない事由」があることが必要であるが、この制約の下で、新証拠が採用される可能性は全くなかった。また、検察官の控訴趣意書での主張は、言葉の上では、「一審無罪判決の論理則、経験則違背」を主張しているように見えるが、その中身は、ほとんど一審での主張の繰り返しで、「論理則、経験則に照らして不合理であることを具体的に示すこと」など全くできていない。
実際に、控訴審では、第一回期日で、検察官の証拠請求はすべて却下され、ただちに結審、控訴棄却の判決が言い渡された。検察官の控訴は「問答無用」で斬り捨てられたに等しい。
この事件については、そもそも国税局が告発したことも、その告発事件を検察官が起訴したことも、全くデタラメだが、何と言っても最も明白に違法なのは、一審で無罪判決が出た後に、それを覆す見込みが全くないのに、検察官が無理やり控訴したことだ。
控訴違法に関する原告側の主張に対して、被告・国側は、凡そ的外れな主張を繰り返してきた。
上記の「平成24年最高裁判決」については、刑事事件における控訴審の審査の在り方を示したものであり、検察官による控訴申立ての判断基準や要件を示したものでもなければ、検察官による控訴申立ての国賠法上の違法性判断基準を示したものでもないなどと述べ、
検察官は、第一審の事実認定が不合理であることを『具体的に』示すことができない場合に控訴申立てをしても国賠法上違法ではない
とまで言い切ったのである。これはすなわち、控訴審での主張や立証と関係なく、検察官が、「あいつは有罪だ」と思っていれば控訴していい、という主張だ。
しかし、一審無罪判決に対して検察官が控訴するとすれば、無罪という結論を導いた事実認定が間違っている(事実誤認)と主張して、控訴審で、その主張を認めてもらい、無罪判決を覆すことが目的のはずだ。
国側の主張は、検察官は、公訴権(刑事事件を起訴する権限)を自由に行使できるのと同様に、無罪判決に対する控訴も、したいと思えば自由に行うことができ、控訴がどのような結果に終わっても一切責任を問われないという、まさに「検察の独善」そのものだといえよう。
大阪地検特捜部の村木厚子氏の冤罪事件や証拠改ざん事件で厳しい社会の批判を浴び、「検察の理念」を定めるなど、抜本的な改革を迫られた検察組織である。「有罪」だと判断し「正義」だと思えば、無罪判決に対する控訴でも何でもやることができる、という考え方が、国民に許容されないのは当然であろう。
平成24年の最高裁判決以降、無罪判決に対する検察官の控訴の違法性が争われた事例での裁判例はまだ出ていない。八田氏の国賠訴訟は、その点についての貴重な先例になる可能性がある。
この点に関して重要なことは、検察官の権限と責任に関する法的枠組みが、検察という組織と一般の行政庁とでは大きく異なるということだ。


