- 2016年04月03日 13:00
「元外務省事務官」高校野球監督の子どもの伸ばし方叱り方
ベスト4監督は「パナソニック元役員」
元ソフトバンクで現・早鞆高校監督(山口)の大越基(44歳)、また元西武で現・金沢学院東高校(石川)の金森栄治(59歳)など、プロ野球を引退した選手が高校野球の監督となるケースが増えている。
プロとアマチュアの垣根が年々、低くなり一昨年から、定められた講習を受ければ、プロのOBもアマチュア資格を回復して高校野球の指導者になる道が緩和されたことも一因ではある。だが、それよりも高校野球への熱とでもいうべきものが彼らを衝き動かしていると言ったほうが適切だろう。
先日、智弁学園の優勝で幕を閉じたセンバツ高校野球。ベスト8に進出した各校の監督の経歴に注目したレポートが主催社新聞にあった。
秀岳館(熊本)の鍛治舎巧監督(64歳)はパナソニックの専務役員まで上りつめた元トップマネジメント。一方で大阪の名門ボーイズリーグの指導者も務めた(そのチーム出身者が今回ベスト4と躍進した秀岳館の主力選手)。
滋賀学園の山口達也監督(44歳)は大手宝石会社の有能な営業マンだったそうだ。
明石商(兵庫)の狭間善徳監督(51歳)は明徳義塾中の監督だった。全国制覇を経験していて、明石市の指導者公募で採用された。
高松商の長尾健司監督(45歳)も中学の教員指導者から高校の教師に転じた人で、最近、低迷していた名門を復活させた。
みな、選手として高校野球を経験したが、前職は違った。高校野球というフィールドから離れた人たちだが、また、その舞台に戻ってきて、結果を残した。
霞ヶ関の役人が「監督」を目指した理由
そして今回、ご紹介したいのは、何と霞ヶ関の国家公務員から高校野球の監督に転じた不惑の人のことだ。
神奈川県央の北部に位置する相模原市。丹沢山系が望め、周囲には田畑が広がる場所に、県立相模田名高校はある。
平林明徳(48歳)が社会科の教諭として同校に赴任した1年目は前任の野球部の監督がいたため、部長などを務め、2年目から念願叶って正式に監督に就任、それから4年目の春を迎えている。
平林監督の人生は一本道ではない。
ちょっと驚きのキャリアは後述するが、大きなターニングポイントのひとつが39歳のときだった。
その年の夏に岐阜県の教員採用試験に受かった。翌年、初任地の高山工では監督がいたので高校野球には携われなかった。サッカー部の顧問などをしていたが、「ここでは監督になれそうもない」と神奈川の試験をあらためて受けなおした。それほど、「高校野球部監督」に魅力を感じていた。
平林監督の原点は地元、長野の高校野球だ。昭和43年早生まれの桑田・清原世代。自身は県立南安曇農高校で白球を追った(高校3年時の夏の県大会は1勝して、終了)。
上京して、外務省に行政職事務官として入省。霞ヶ関で働き始めたのがキャリアのスタートだ。外務省ではアジア局でカンボジア和平協議など大きな案件を裏で支えた。
外務省で働きながら、教職の勉強
野球は趣味のひとつとして外務省のチームでプレーし、省庁大会などに出ていた。元球児として、草野球を楽しんでいたわけだが、その後のある人物との出会いが平林の人生を変える。
長崎慶一氏。大洋ホエールズ、阪神タイガースなどで選手、コーチとして活躍した人だ。その長崎氏が営む東京・新橋の焼肉屋に食事に行ったり、そこのチームと試合をしたりと交友を深める。
ある時、長崎氏が「今度、シニアチームの監督になるので、コーチにならないか」と声をかけてきた。ふらりとチームを見に行ったつもりが「その日から足立シニアのコーチになっていた」。
シニアでも曲がりなりにも「現場」だ。「高校野球の指導者になりたい」という夢がよみがえってきたという。
でも、指導者の実績はゼロに等しい。このまま声をかけられて、監督になれる道はほぼ、ない。ならば、「教師になるしか道はない」。
中大では教職を履修していなかったため、中大の聴講と日大の通信課程で教職を取った。
さらに、野球の勉強をいろいろ積むべく、知人のすすめで日大野球部の門を叩く。平林の良さは思い立ったら即、動く、ということにある。逡巡していても始まらない。とにかく一歩、踏み出すことだ。
当時の日大の鈴木博識監督(現鹿島学園)は「いつでも来いよ」と気軽に受け入れてくれた。
野球の「名将・知将」を訪ねて修行
当時の日大には松坂大輔世代が多く在籍していた。館山(現ヤクルト)、本橋(元PL学園)、井上(元明徳義塾)など、のちにドラフト指名される有力な選手たちだ。仕事が休みの週末、一緒にグラウンドを走ったり、ノックを打ったりした。
やはり日大の部員で、元PL学園の中村順司監督(現名古屋商科大総監督)の息子がいた関係で、その中村さんのもとを訪ねる。ただの公務員が、アマチュア球界の大監督のもとを訪ねて「野球を勉強したい」と。その行動力は舌を巻く。
横浜高校の松坂に夏の準決勝で敗れた明徳義塾(高知)の捕手だった井上には、今も監督を続ける明徳の馬淵監督と会わせてもらえるよう取りはからってもらった。
こうした先達からの「学び」が平林の財産だ。
田名高校は普段、サッカー部、陸上部とグラウンドを併用する。フリー打撃はマウンド付近からバックネット方向に打つ。しかも、緩く遅い投球を、だ。これは元法政大野球部の名将・五明公男監督から教えられた練習法だ。引きつけて強く降り抜く。速いボールを普通にフリーバッティングしたら調子を崩したそうで、「うちの打撃はこれで上手くいっているので」と独特な練習をメインに続けている。
役人時代の経験が監督業に生きる
「監督になってみて初めてわかったことがあるんです。それは(仕事でも野球でも)現場が最良の教場(教室)だなということ」
教師になる前にも、いろんなことを教えられたが、所詮、机上での事。実際に自分は高校のグラウンドでノックバットを振っていない。生徒と対話もしていない。
現場ではいろんなトラブルや壁がある。野球部では、いい新入生が入部しても、その時の3年生が、「最後の夏は1年生抜きでやりたい」と言い張ることもあった。
また選手との距離が近く話しやすい監督というのは、一方では選手からなめられるリスクもある。のびのびやらせていたら、単位を落とす生徒も出るなど、悩みは多い。
外務省ではフットワークの良さと社交的な性格が潤滑油となって仕事ははかどった。それが多くの野球人を訪ねたことや、選手たちとのコミュニケションを深めるときに生かされている。
「外務省では素早い決断力を求められました」
すんなり決着すると思われていた案件が一晩で覆ったり、世界の紛争が突如勃発して仕事に影響が出たり。それにフレキシブルに対応するには常にアンテナを広く高く張ること、またスピード感をもって対処することを求められる。
外務省式「人は褒めて伸ばす」
さらに重要だったのは、「周囲に悟られないようにことを進めること」だ。重要事項が漏れたら、大げさに言えば国家が揺れると言ってもいい。1から仕切り直しだ。
「当時は新聞記者に気をつけていました(笑)」
そうした用心深さは今の監督業にも生きている。
例えば、ベンチからスクイズのサインを出す時だ。確固たる自信を持って決断し、相手チームに悟られないようにサインを出す。外務省の時の行動と重なるし、教訓だそうだ。
外務省での仕事経験が野球部の練習で生かされているのは褒めるという習慣も当てはまる。
「限られた時間なので、1つのプレーを止めていちいち、指摘しているのは時間がもったいない。バッティングもひと振りごと、止めてアドバイスしていたら打てる本数が減るし、粗探しばかりしてしまう」
これは神奈川の強豪校の監督と話していて我に返って外務省でのことを思い出したという。そうだ、自分も褒めて育ててもらったのだ、と。
「最後にまとめて褒める方が生徒は伸びる。僕も長く時間をかけたら、厳しい小言を言い出すだろうとそこには注意しています。役所でもダメだと言われたら萎縮してしまう。褒められたら伸びていくし、結果を出せた。褒める上司の下で働かせてもらって、いい仕事ができたと思います」
部員に伝えている「時間をムダにするな」
20年近く務めた外務省での最後はIAEA(国際原子力機関)関連の予算担当の主任だった。
今、預かる部員は3年と2年で20人と多くない。ひとりひとり、じっくり目が届く人数が理想だ。
この春、平林が指導したある部員が大学の野球部に入った。かつてお世話になった中村順司監督の元でプレーを続けさせたい、というひそかな希望を持っていたが、その生徒がその願望を叶えてくれたのだ。
主将の浅野智大君は言う。
「(平林監督に)一番言われるのは礼儀と全力プレーです。限られた時間、最後の夏まで2年半しかない。全力でやらないともったいないよ、と言われます」
平林監督の熱は高校生に伝わっているはずだ。
(文中一部敬称略)
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