記事
- 2016年03月23日 06:58
「音楽を通して償っていきたい」新垣隆氏が語るゴーストライター後の未来
1/3
『全聾の作曲家はペテン師だった!』。2014年2月、「週刊文春」に掲載されたスクープと、それに伴う”ゴーストライター新垣隆”の記者会見は、多くのマスコミの注目を集めた。
騒動から2年、新垣氏はその間、どのような思いでメディア出演や創作活動に携ってきたのだろうか。「週刊文春」のスクープを執筆したノンフィクション作家・神山典士氏が聞いた。
―――ゴーストライターであったことを告白してから約2年がたちました。この間メディアへの頻繁な登場がありましたが、仕事としては事件の前後で変化はありますか?
いえ、自分としては仕事そのものは変わりませんし、変わりようがないと思っています。もちろん状況的にはいろいろな変化や出会いがありましたが、基本的に私は音楽家として音楽を通して様々な人々とコミュニケーションをとっているつもりです。
変化があったとすれば、以前は一人で作曲する作業がほとんどでしたが、事件後はテレビ出演やCMなど多くのみなさんとチームで仕事することが増えたことでしょうか。ともすれば個人では支えきれない仕事の規模になってしまったことが大きな変化だったと思います。
―――事件後、テレビのバラエティ番組等への出演も多数こなしていますが、、どんな経緯があって出演依頼が増えたのですか?
あの記者会見(2014年2月6日)の後、最初にテレビ局の取材を受けたのは14年の4月ころ、CX(フジテレビ)の「ミスターサンデー」でした。それまでは週刊文春の記者さんたちがある程度ガードしてくれていたのですが、あの時はテレビクルーが自宅まで来て、部屋の中まで撮っていきました。あの番組がテレビと私個人が関わった最初のことで、週刊文春以外で単独取材を受けたのも初めてのことです。
取材のあと、放送の前に送られてきたDVDを自宅で見てびっくりしました。自分の部屋にある小さなブラウン管の中に自分の部屋が映っている。なかなか体験できないシュールな眺めでした。テレビに映る自分を見るのはとても嫌でした。慣れないというか恥ずかしいというか。
ところがその後、BSスカパーの「BAZOOKA」という音楽やサブカルチャーを取り上げる番組から声がかかって、「現代音楽とは何か」をテーマにするということで出演したのです。番組の中では事件のことも多少は触れましたが、現代音楽の作曲家としてとりあげてくれたので、それは嬉しかったんです。吉本興行の小藪千豊さんがMCを務める番組です。
そのスタジオ収録の時に、小藪さんが出演しているCX(フジテレビ)の「ノンストップ」のスタッフが見学に来ていて出演依頼をうけました。ちょうどその時期に音大の仲間たちが都内でクラシックコンサートを企画してくれていて(14年6月)、そのことを取り上げてくれるということだったので生放送に出ました。それが6月だったと思います。
その3つが映像メディアとの最初のかかわりでした。
―――その後はご自分でもテレビ出演を解禁とされたわけですか?
いえ、自分ではテレビに出るのはいいことなのか悪いことなのかわかりませんでした。とにかくその3回は”テレビに出ちゃった”。「ノンストップ」の中では、「今日でテレビに出るのは卒業します」と宣言したんですが、その宣言を守れなかった。頼まれるとつい「いいですよ」と言ってしまうんです。そして現在に至るという感じです。
テレビの中に自分がいることは事件前にはまったくなかったことで、本来の自分にはありえないことだと今も思っています。どう見られるか考える余裕もないし、どう見られたいかなんてまったくわかりません。あれだけの騒動を起こしてしまったので、本人の声を聞きたいという視聴者の要望があって、出演依頼がくるんだと思っています。それに対しては、ある程度は応えないといけないと思っていました。
―――テレビに出演するようになってからの大きな出会いをあげるとすると、どんな方になりますか?
出会いという意味ではビートたけしさんでしょうか。14年9月の初めにたけしさんが司会をする討論会のような番組(『ビートたけしのいかがなもの会』)の収録がありました。放送は10月、ゴールデンの番組です。たけしさんは私と佐村河内氏のどうしようもない関係に興味をもってくれていて、呼んでくださったのです。私はいわば”公開処刑”される内容でしたが、たけしさんはある意味で私を擁護してくれて、そのことは嬉しかったんです。
カンニング竹山さんとも何度もお会いしました。竹山さんは毎年一度一人だけのライブを開いていて、14年はピアノを弾きたいという希望でした。佐村河内さんと風貌が似ているということもネタに使いたかったのではないでしょうか。竹山さんには請われて何回かピアノを教えました。私が提供した短いオリジナル曲を竹山さんは両手で演奏するのですが、譜面が読めないからどの鍵盤をどの順番で弾くかをすべて記憶されていました。私たち音楽家からしたら驚異的な覚え方です。見事な演奏でした。
その年の年末にはダウンタウンの番組など出演が増えてしまったのですが、それは年末にその年世間を騒がせた人の特集が多かったからです。小保方さんとか号泣県議の人とかいるなかで、あのころ「テレビの出演依頼をうけるのは新垣だけだ」ということになって、声がかかったのでしょう。その役割を私が引き受けてしまったということじゃないかなと思っています。
騒動から2年、新垣氏はその間、どのような思いでメディア出演や創作活動に携ってきたのだろうか。「週刊文春」のスクープを執筆したノンフィクション作家・神山典士氏が聞いた。
騒動後も自分の”仕事”は変わらない

新垣隆氏と「週刊文春」のスクープを執筆した神山典士氏(撮影:蟹由香)
いえ、自分としては仕事そのものは変わりませんし、変わりようがないと思っています。もちろん状況的にはいろいろな変化や出会いがありましたが、基本的に私は音楽家として音楽を通して様々な人々とコミュニケーションをとっているつもりです。
変化があったとすれば、以前は一人で作曲する作業がほとんどでしたが、事件後はテレビ出演やCMなど多くのみなさんとチームで仕事することが増えたことでしょうか。ともすれば個人では支えきれない仕事の規模になってしまったことが大きな変化だったと思います。
―――事件後、テレビのバラエティ番組等への出演も多数こなしていますが、、どんな経緯があって出演依頼が増えたのですか?
あの記者会見(2014年2月6日)の後、最初にテレビ局の取材を受けたのは14年の4月ころ、CX(フジテレビ)の「ミスターサンデー」でした。それまでは週刊文春の記者さんたちがある程度ガードしてくれていたのですが、あの時はテレビクルーが自宅まで来て、部屋の中まで撮っていきました。あの番組がテレビと私個人が関わった最初のことで、週刊文春以外で単独取材を受けたのも初めてのことです。
取材のあと、放送の前に送られてきたDVDを自宅で見てびっくりしました。自分の部屋にある小さなブラウン管の中に自分の部屋が映っている。なかなか体験できないシュールな眺めでした。テレビに映る自分を見るのはとても嫌でした。慣れないというか恥ずかしいというか。
ところがその後、BSスカパーの「BAZOOKA」という音楽やサブカルチャーを取り上げる番組から声がかかって、「現代音楽とは何か」をテーマにするということで出演したのです。番組の中では事件のことも多少は触れましたが、現代音楽の作曲家としてとりあげてくれたので、それは嬉しかったんです。吉本興行の小藪千豊さんがMCを務める番組です。
そのスタジオ収録の時に、小藪さんが出演しているCX(フジテレビ)の「ノンストップ」のスタッフが見学に来ていて出演依頼をうけました。ちょうどその時期に音大の仲間たちが都内でクラシックコンサートを企画してくれていて(14年6月)、そのことを取り上げてくれるということだったので生放送に出ました。それが6月だったと思います。
その3つが映像メディアとの最初のかかわりでした。
―――その後はご自分でもテレビ出演を解禁とされたわけですか?
いえ、自分ではテレビに出るのはいいことなのか悪いことなのかわかりませんでした。とにかくその3回は”テレビに出ちゃった”。「ノンストップ」の中では、「今日でテレビに出るのは卒業します」と宣言したんですが、その宣言を守れなかった。頼まれるとつい「いいですよ」と言ってしまうんです。そして現在に至るという感じです。
テレビの中に自分がいることは事件前にはまったくなかったことで、本来の自分にはありえないことだと今も思っています。どう見られるか考える余裕もないし、どう見られたいかなんてまったくわかりません。あれだけの騒動を起こしてしまったので、本人の声を聞きたいという視聴者の要望があって、出演依頼がくるんだと思っています。それに対しては、ある程度は応えないといけないと思っていました。
―――テレビに出演するようになってからの大きな出会いをあげるとすると、どんな方になりますか?
出会いという意味ではビートたけしさんでしょうか。14年9月の初めにたけしさんが司会をする討論会のような番組(『ビートたけしのいかがなもの会』)の収録がありました。放送は10月、ゴールデンの番組です。たけしさんは私と佐村河内氏のどうしようもない関係に興味をもってくれていて、呼んでくださったのです。私はいわば”公開処刑”される内容でしたが、たけしさんはある意味で私を擁護してくれて、そのことは嬉しかったんです。
カンニング竹山さんとも何度もお会いしました。竹山さんは毎年一度一人だけのライブを開いていて、14年はピアノを弾きたいという希望でした。佐村河内さんと風貌が似ているということもネタに使いたかったのではないでしょうか。竹山さんには請われて何回かピアノを教えました。私が提供した短いオリジナル曲を竹山さんは両手で演奏するのですが、譜面が読めないからどの鍵盤をどの順番で弾くかをすべて記憶されていました。私たち音楽家からしたら驚異的な覚え方です。見事な演奏でした。
その年の年末にはダウンタウンの番組など出演が増えてしまったのですが、それは年末にその年世間を騒がせた人の特集が多かったからです。小保方さんとか号泣県議の人とかいるなかで、あのころ「テレビの出演依頼をうけるのは新垣だけだ」ということになって、声がかかったのでしょう。その役割を私が引き受けてしまったということじゃないかなと思っています。



