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第355回(2016年3月19日)

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2.吏党と民党

1889年(明治22年)、大日本帝国憲法が公布され、25歳以上、納税15円以上の男子に選挙権が付与されました。

翌1890年(明治23年)、第1回総選挙(衆議院議員選挙)が実施され、「立憲自由党」「立憲改進党」などの「民党」が反民党勢力すなわち親政府勢力の「吏党(りとう)」よりも多くの当選者を出しました。

因みに、日本では地方議会の方が先に誕生。2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」に登場した会津藩士・山本覚馬は1879年(明治12年)の第1回京都府議会議員選挙で当選し、議長に就任。地方議会は帝国議会(国会)よりも10年以上早くスタートしています。

「吏党」は帝国議会初期において政府寄りの姿勢を示した政党のこと。自由民権運動を継承した「民党」側からの蔑称であり、当事者は「温和派(おんわは)」と自称。経緯は以下のとおりです。

帝国議会開設に触発されて自由民権運動から生まれた諸派が団結し、「立憲自由党」「立憲改進党」を創設。

保守派も対抗し、第1回帝国議会(1890年<明治23年>)直後に「大成会」を設立。自由民権運動派が「大成会」を批判的に「吏党」と呼んだのが始まりです。

「吏党」という言葉の発案者は中江兆民(土佐藩士)。第1回総選挙の当選者でもある中江は、フランスの思想家ルソーを日本へ紹介した自由民権運動の理論的指導者でした。

「大成会」はやがて院内会派「中央交渉部」に変化。さらに1892年(明治25年)、佐々友房(肥後藩士)、品川弥二郎(長州藩士、松下村塾生)らが「国民協会」を結成。

しかし、国粋主義や条約改正等を巡って「国民協会」内部でも反政府的主張を行う者が出る一方、「民党」の中核「自由党」の中にも政府に接近する者が出て、「吏党」「民党」は必ずしも「親政府」「反政府」と特徴づけることができなくなりました。

具体的には、「国民協会」が「帝国党」に移行した際、一部が「自由党」の後継である「憲政党」や藩閥官僚とともに「立憲政友会」を結成。対抗勢力は「立憲同志会」さらに「憲政会」に発展。

この段階で「吏党」「民党」という呼称は消滅。代わって「与党」「野党」という言葉が登場します。「与党」は政府を構成し、行政を与(あずか)る、与(くみ)する政党、「野党」は政府を構成せず、行政を担わない在野(ざいや)の政党を意味します。

政府は当初、議会や政党を軽視。「超然主義」です。しかし、大日本帝国憲法が政府決定に議会承認を要する仕組みを明文化。憲法の拘束の意味に気づいた政府は、選挙への干渉、金銭買収、ポスト提示などによって議会関係者、政党関係者を懐柔。これもどこかで聞いたような話です。

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