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- 2016年03月11日 07:00
戦国大名 究極のサバイバル戦略〜武田信玄 風林火山「人は石垣」の人事術 - 加藤廣(作家)
真田一族、山本勘助ら「武田二十四将」を率いて
あの信長をも恐れさせた名将は、何を目指していたか
上田秋成の『雨月物語』に次のような一節があります。「信長の器量、人にすぐれたれども、信玄の智に及ず、謙信の勇に劣れり」
これは信長の死から二百年近くのちに書かれたものですが、なかなか公平な評価ではないでしょうか。
武田信玄は大永元(1521)年、甲斐の守護、武田信虎の嫡子として生まれます。他の戦国大名と比べると、今川義元が1519年、三好長慶が1522年生まれでほぼ同世代にあたる。1530年生まれの上杉謙信、1534年生まれの信長は10年前後年下ということになります。
戦いに明け暮れた戦国武将のなかでも、武田軍団の強さは広く知られ、その最大版図は甲斐本国と信濃、駿河、西上野、そして遠江、三河、美濃、飛驒の一部にまで及びました。織田信長が最も恐れた戦国大名といっても過言ではないでしょう。
1572年、西上作戦を開始した信玄は、三方ヶ原の戦いで徳川家康の軍に圧勝、三河に侵攻を続けている最中に、病に倒れます(享年53)。もし、信玄があと数年、健在であったならば、当時、一向宗との戦いに苦しんでいた信長も、さらに難所に追い詰められたことは間違いなく、その後の歴史も大きく変わっていたはずです。
地域経済学から見た戦国武将
では、この信玄が目指したものとは何だったのでしょうか。まず確認しておかなければならないのは、戦国大名のすべてが「天下統一」などを目指していたわけではない、それどころか、大方の大名にとっては「日本」という国家意識すらも持ち合わせていたかどうか、疑わしいということです。
多くの大名にとって、「国」といえば第一に自分の領国を意味しました。しかも、その国の境は、多くの場合、川や海、そして山といった「自然国境」によっていた。武田信玄の場合でいうならば、北は関東山地、西は赤石山脈、南には富士山、身延山に囲まれた甲府盆地が、本来の「国」だったはずです。
確実に「日本」を意識した、といえるのは、まずは豊臣秀吉でしょう。海の向こうに明という国がある。これを攻めるとき、日本という国を明確に意識せざるを得ない。
では、信長はどうだったか。信長の場合、宣教師たちに、いまでいう世界地図を見せられた、そこで「日本」を意識した、という話になっていますが、本当に「国家」を意識したかというと、はっきりしないところがある。
私はかねてから、戦国大名の行動を理解するには、地域経済学を知る必要があると考えてきました。
たとえば、なぜ信長は京都を目指したか。私のみるところ、そのカギは、尾張という土地にあります。今でこそ肥沃な濃尾平野といわれますが、信長の時代、揖斐川、木曽川、長良川という三つの大河が集結する尾張地域は、台風が来るたびに洪水が発生し、稲がやられてしまうという悪条件を抱えていました。そのため、米作りがままならない分、桑を育て、布織りや着物作りに頼らざるを得なかったのです。そうした商品の最大の消費地が京都であり、信長の本拠、津島は当時、物流の要となる港町でした。つまり、信長の「天下取り」への道とされている道筋は、尾張産品の通商ルートとその利権の確保に過ぎなかった、ともいえるのです。
また、着物や織物作りは女性の仕事です。だから、尾張の兵には守るべき土地への愛着が薄く、兵農分離が容易でした。また農業に主軸を置いていないので、田植えや稲刈りなどの農繁期にも、軍を招集することが可能だったのです。信長が清洲↑小牧↑岐阜↑安土と次々と本拠地を替えていけたのも、土地との関わりの薄さをあらわすものでしょう。
狭い甲斐から南を目指す
これに対して、武田信玄はどうでしょうか。信長の尾張と信玄の甲斐。共通しているのは、どちらもアウタルキー、すなわち自給自足が困難な地域であったことです。信玄の優れた治世のひとつとして、「信玄堤」といわれる堤防、治水工事がよく知られていますが、これは裏を返せば、それだけ水害の多い土地だったことを意味します。甲府盆地には釜無川、笛吹川という大きな川が流れ、たびたび氾濫を起こしていました。
それだけではありません、内陸部に位置する甲斐は物流の面でも不利で、「敵に塩を送る」の故事でもうかがえるように塩も取れない、鉄砲隊に不可欠な火薬の調達も容易ではない。豊かな資源としては、金山くらいでしょうか。だから、ある程度以上の勢力を保つためには、甲斐というエリアを出て、外に広がらざるを得ない。それが信玄の戦略的大前提だったと思います。
一方、自給自足を満たし、交易も盛んという好条件に恵まれたのが、ライバルとされる上杉謙信や、朝倉氏が治めた越前(福井)です。近代史観からすると「裏日本」などと呼ばれ、豊かではない印象がありますが、とんでもない。米の産地であるばかりか、漁獲量も多く、通商も盛んだった。ことに朝倉氏は琵琶湖を経由すれば京都とのアクセスも抜群でした。だからこそ、信長は柴田勝家のような重臣を送り込んで、徹底して朝倉氏を滅ぼそうとした。
もちろん、信玄は自らの置かれた地政学的悪条件にきわめて意識的だったと思います。まず信濃、次に上野(群馬)に領土を広げますが、本当に手に入れたかったのは南に広がる駿河平野だったと思います。後年、駿河に進出した信玄は、駿河、伊豆、伊勢などの海賊たちを集めて、水軍も設立していました。もし南への展開が早ければ、ここでも信長は大苦戦を強いられたでしょう。
しかし、南には今川氏がいる。北条氏もいる。南を攻めていると、今度は北から上杉がやってくる。さながら東国最強軍団リーグ戦のような状況が続くのです。ここにも、信玄の地政学的な不運があります。
余談になりますが、ある意味、こうした信玄の構想を引き継いだのは徳川家康だったのかもしれません。家康は信玄への尊敬をしばしば口にしており、武田家滅亡後は、その家臣たちを抱えてもいます。さらに私が注目したいのは、晩年、駿河に隠居した家康が駿府城、清水湊を繫ぎ、もっと巨大な軍港を築く計画を持っていたことです。
私はこのことを、小説『水軍遙かなり』(文藝春秋)で書きましたが、軍港計画があったことは史実です。私の考えでは、このとき、家康は世界、ことに南方進出を強く意識していた。清水は黒潮に守られていますから、軍港に適している。行政は江戸、軍港は駿府というのが、家康の最終構想だったはずです。残念ながら、家康は関ヶ原と大坂の陣で手間取ったために、この構想を実現する前に死んでしまいました。
「農の原理」と「商の原理」
一方、信玄の甲斐と信長の尾張の最大の違いは、尾張が商業に重点を置く商業国だったとすると、甲斐、信濃など武田の勢力圏は、あくまでも農業を基盤とする農業国だったことでしょう。本拠地さえ次々と移動しながら、メインルートを「線」として支配していく信長のやり方を「商の原理」とするなら、甲府盆地を本拠としつつ隣接する地域を「面」として支配し、治水や法整備など着実な領国経営を行っていく信玄は「農の原理」に基づくリーダーだといえます。
その違いが端的にあらわれるのは、兵隊の戦闘力です。商業国と農業国が戦ったら、兵隊の強さでは圧倒的に農業国のほうが上なのです。戦国時代の戦いは、要するに土地の奪い合いです。農民にとって土地は、最も重要な生活、経済の基盤であり、「村の鎮守」というように、祖霊まします信仰の対象でもありました。信玄は「武田二十四将」という勇猛で鳴る家臣団を擁していましたが、彼らのほとんどは甲斐の山々に根ざし、地勢に通暁した小領主たちです。彼らはそれぞれ自分の所領、すなわち農民と土地を支配しており、それを守るために必死で戦いました。
それに対して、大雨が降ると田畑が流されてしまう尾張では、前にも述べたように、土地への愛着が希薄です。だから、当時から「尾張の兵は弱兵」として知られていました。ただし、信長にとって都合が良かったのは、ちょうど鉄砲の普及期と重なったことです。鉄砲などという得体の知れない武器は足軽、雑兵の集団が使うもので、れっきとした侍大将は、馬に乗り弓や槍で闘うもの、というのが戦国時代の通例です。鉄砲を重視すればするほど、足軽・雑兵という一番下の集団が強くなってしまい、それまでのヒエラルキーが逆転してしまう。
ところが織田軍は、それができた。それが信長の先見性だとよく言われるのですが、私はそう思いません。もともと弱兵だったから、「飛び道具」に頼ることに抵抗がなかっただけです。もっと言えば、弱兵ゆえに鉄砲に頼らざるを得なかったのではないでしょうか。
鉄砲という兵器をうまく使うには、それまでの組織を再編する必要があります。つまり、従来はそれぞれの侍大将が自らの家来を率い、各々が武装を整えて戦闘集団を作り、戦に臨んでいました。ところが、鉄砲の時代になると、各家臣から足軽・雑兵を徴収して、鉄砲隊として独自に編成しなければならない。また、火薬などの購入・分配なども、大名が強力な権限をもって一元集中的に行ったほうが効率がいいのです。
そうなると「武田二十四将」のように、ひとりひとりの力が強く、独立性が高い家臣団ほど、かえって扱いが難しくなる。そもそも信玄は、実の父である信虎を追い出し、また長男である義信を廃嫡していますが、これらのお家騒動の背景には、常に重臣たちの主導権争いが絡んでいました。
「外部」を使って組織変革
しかし、逆に言えば、まさに「武田二十四将」というこの難しい組織を巧みに使いこなしたところに、武田信玄という武将の真骨頂があったといえるのです。冒頭で、「信玄は智の人」だったと述べましたが、彼の人使いのうまさは天才的といえるでしょう。たとえば、いま大河ドラマで取り上げられている真田家。彼らは武田家代々の家臣ではなく、まさに信玄によって才能を見出され、重用された一族でした。さらに大きいのは、軍師・山本勘助の登用でしょう。勘助は築城の名手だったともされていますが、私は、信玄が勘助の手腕を最も頼ったのは、武田軍団の組織改革だったと考えています。今も昔も、組織改革というのは非常に難しい。ことに「内部」の人間にはまずできないとみていいでしょう。そこで、「外部」の人間、山本勘助を使って、少しずつ一元集中的な要素を取り入れていこうとしたのだと見ています。
信玄の凄いところは、旧来の譜代の重臣たちとのバランスを保ちつつ、そうした新しい人材を用いたことです。これも信長と対比させるのが一番わかりやすい。
信長はいってみれば新興のベンチャー企業のリーダーのようなもので、徹底的な成果主義ですが、このやり方ではいつまでたっても安定した組織にはなりえません。「人の和」を理解できない信長の欠点が、そのまま組織の不安定性につながっているのです。 信玄の言葉として伝えられている有名な「人は石垣、人は城」は、まさに「人事」に意をくだいた信玄の姿勢をよくあらわしている。 その点、後継者に選んだ勝頼には、気の毒な面があります。もともと勝頼の母は、信玄が滅ぼした諏訪氏の娘。勝頼は信玄の庶子として育ち、成人後はいったん諏訪氏を継いでいます。ところが、その後、長男・義信が廃嫡されたために、急遽、後継者に指名された。 武将としての勝頼は武勇の誉れも高かったのですが、家臣団を納得させるだけの「正統性」に欠けた面があったのは否めません。その意味では、「組織の論理」に敗れた、ということもできる。
独立性が高く、それぞれが強大だった武田軍団のマネージメントは、やはり、強いカリスマ性と絶妙の人事センスを持つ信玄でなければ難しかったのでしょう。
武田信玄関連年表
1521 武田信玄(晴信)生まれる。1541 父、信虎を駿河に追放。武田家当主に。
1547 甲州法度之次第制定。
1553 第一次川中島の戦い。
1554 甲相駿三国同盟を結ぶ。
1555 信濃平定。
1561 西上野に進出。第四次川中島の戦い。
1567 長男、義信死去。
1568 駿河へ侵攻開始。
1569 今川氏を滅ぼし、駿河を制圧。
1572 西上作戦開始。三方ヶ原の戦い。
1573 信玄死去(53)。
かとう ひろし 1930年東京生まれ。東京大学法学部卒。中小企業金融公庫本店調査部長、山一証券経済研究所顧問などを歴任して、2005年、作家としてデビュー。作品に『信長の棺』(文春文庫)、『黄金の日本史』(新潮新書)など多数。
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