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紛争と貧困の中で普及するパレスチナ母子手帳 母子手帳に込められた子どもの健康と未来への希望 - 萩原明子 (JICA国際協力専門員)

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パレスチナ人の親子と接する筆者(撮影:今村健志朗)

 シリアからヨーロッパに避難したパレスチナ難民の母親が幼子とともに小さなカバンの中に持参した母子手帳。この記事をインターネットで目にした私たちは、母子手帳のもつ無限の可能性に息をのんだ。パレスチナ難民が持参した母子手帳は、私たちJICA(国際協力機構)がパレスチナ自治区保健庁や国連機関であるUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)やUNICEF(国連児童基金)、現地NGOなどと協力して作成した世界で始めてのオリジナル、アラビア語母子健康手帳だった。現地では、「生命(いのち)のパスポート」と呼ばれている。母子手帳に込められた子どもの健やかな成長と未来への希望は、世界共通だ。母親は、避難先でも、予防接種や乳児健診を受けることができるよう、子どもの健やかな成長を願い母子手帳を持参したことだろう。手帳を持っていることで、子どもへの支援が優先的に受けられると考えたのかもしれない。

 「子どもたちの世代には、平和で安定した社会を形成して欲しい」

 「そのためには、子どもたち一人一人の生命を大切に守りたい」

 パレスチナ人は、そう願う。その背景には、深刻な人道上の危機が横たわっていた。

「生命(いのち)のパスポート」と呼ばれる
パレスチナ母子手帳

 「我々は一致協力してすべて母子の健康を人権として確実に守ろう」。パレスチナ母子手帳の裏表紙にはこんなメッセージが大きく掲げられている。

 紛争と貧困により女性と子どもが深刻な被害を受けているパレスチナでは、母子手帳が「生命(いのち)のパスポート」としての役割を担っている。

 内閣府の政府広報室による海外向けパレスチナ母子手帳CM
「Fortifying Parent-and-Child Healthcare in Palestine」(萩原明子:母子手帳篇)

 イスラエルの占領下にあるパレスチナでは、分離壁、検問・道路封鎖、外出禁止令などで経済活動や日々の移動も制約されていた。人々の暮らしにさまざまな困難が生じ、その影響は母子保健にも及んでいた。分離壁や検問所の封鎖で、 かかりつけの医療機関に通えなくなり、別の医療機関で改めて初診となる事例が頻発していた。検査の重複や、受診の遅れは、危険な兆候の早期発見や早期治療を妨げ、すでに逼迫している医療財政をさらに圧迫していた。また、パレスチナには、公立医療機関のほか、UNRWA、NGO、民間の医療施設があるが、健診項目や記録方法も統一されていないため、母子が継続したサービスを受けにくい状況だった。さらに妊娠出産や子どもの健康管理のリスクに対する人々の意識が低いこともあり、産後健診・乳幼児健診の利用率は低迷していた。

 これらの課題への対応策として導入されたのが、パレスチナ母子健康手帳であった。母子手帳を持参していれば、保健所への道が閉ざされても、別の医療機関で適切な医療を継続して受診することができる。母子手帳には妊娠、出産の経過や医療処置、子どもの予防接種や成長の記録が記録されているからだ。また子どもが病気になったとき、検問所の長い列に並んで病院へ行くか、自宅で処置するか、判断に困ったときや、家庭で両親が子育てや健康について話し合うときにも、手帳が活用される。手帳には、妊娠、出産、子育てに役立つ保健情報がイラストとともにわかりやすく掲載されている。日本のような育児雑誌も普及していないパレスチナの母親にとって、母子手帳から得られる情報は命綱となる。

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 パレスチナでは、医療従事者が母親への保健指導に、また、自宅での夫婦間で出産や子育てについての話し合いなどにも、母子手帳が活用されるようになった(※出所)。妊娠中の危険な兆候に対し、母親自身が気づき、迅速に医療機関を受診できるようになった。妊娠出産、乳児の緊急事態に備え、夫の役割がより明確に理解されるようにもなった。

※Hagiwara A, Ueyama M, Ramlawi A, Sawada Y. Is the maternal and child health (MCH) handbook effective in improving health-related behavior? Evidence from Palestine. J Public Health Policy. 2013;34:31–45. doi: 10.1057/jphp.2012.56.

アラビア語で初めての母子手帳

 パレスチナ母子手帳は2005年から開発がすすめられた。アラビア語で初めての母子手帳の開発は困難を極めた。母子手帳の存在を知らないパレスチナの人々に、その役割を知らせるために、ラジオや新聞、街頭看板、集会など全国的なキャンペーンを行った。また、母子手帳を活用するための医療従事者向けの技術訓練や制度づくりも手帳の開発と並行して実施された 。医療従事者や行政官には、来日研修も実施し、現場視察や講義を通じ、日本の母子手帳の仕組みを徹底的に知らせた。紛争の激化により、プロジェクトが中断しかけたこともあった。

 ガザ地区とヨルダン川西岸地区は物理的、政治的に分断されていたため、テレビ会議や電話で全国普及のための会議を行った。西岸で印刷した母子手帳は、ワクチン運搬車両の片隅に積んで、ガザに届けた。これらの活動の結果、2008年に手帳が完成してから、3年後には、西岸地区の89%、ガザ地区の63%の母子が母子手帳を利用するまでに手帳は広まった(2010年パレスチナ世帯保健調査「Palestinian Ministry of Health (2012) The Overview of MCHHB in Palestine. 」) 。さらに、UNRWAを通じ、2010年からヨルダン、シリア、レバノンのパレスチナ難民にも活用されるようになった(JICA’s World 2011年2月号 手帳がはぐくむ希望)。

母子手帳に込められた未来への希望

 パレスチナ母子手帳の「スイートメモリー」というページは、両親が子どもの成長や気づいたことをメモできる特別なページだ。これは、来日したパレスチナの保健行政官が日本の母子手帳には母親がたくさんの書き込みをしていることに気づき、発案されたページだ。母子手帳は医療記録、健康教育のツールとして重要な役割がある一方、両親が子どもに託す様々な未来への思いも込められている。

 「初産で不安だったけれども、安心して出産が迎えられるようになった」

 「イラストが多くて読みやすい」

 「自宅で夫と妊娠や子育てについて話し合えるようになった」

 「子どもが大きくなったら、記念として手渡したい」

 母子手帳に子どもの写真をはったり、表紙にラミネート加工を施したり、子どもが成長するまで大切に使っていこうと、母親たちは思い思いに工夫を凝らしている。

 パレスチナ母子手帳には、また、パレスチナの医師、看護師や助産師、母親たちが望む、家族の理想的な姿が描かれている。特に目立つのが、父親の育児参加だ。妊娠中、出産後の子育てで、夫にはこんな役割を果たしてほしい、そう願う理想の父親像が母子手帳の随所に描かれている。表紙に両親と子どもが描かれていることも理想の一つだ。母子手帳を開発した段階では、これらは理想であったが、実際に運用が始まると、実に多くの父親が母子手帳を手に子どもを抱いて、乳児健診や予防接種のため保健センターを訪れるようになった。これは私たちにとっても想定外の出来事だった。

母子手帳のもつ無限の可能性

 UNRWAではパレスチナ難民向けに電子母子手帳の開発を進めている。ヨルダンでは近年、IT化が進んでおり、ヨルダン在住のパレスチナ難民女性たちの約8割がパソコンまたはスマートフォンを持っているとのことである。ヨルダン国内にあるUNRWAの診療所ではすでに電子カルテが導入されていて、母子手帳に記載する周産期や子どもの成長記録も、電子カルテで管理されている。母子手帳を電子化すれば、これまで医師や看護師が手書きで記入していた必要情報を電子カルテから電子母子手帳に自動的に記載することができ、業務が効率化される。また、予約リマインド機能を搭載することで産前、産後、乳児健診の受診率向上も期待できる。

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撮影:吉波佐希子

 電子化と紙の母子手帳のメリット、デメリットについては、今後UNRWAでの試行により徐々に明らかになるものと期待される。双方の良さを最大化するためには併用が望ましいのかもしれない。いずれの形式にせよ、個人が保健情報を持参できることのメリットは計りしれない。

 私たちは今、母子手帳がパレスチナ難民以外の難民支援にも広く活用されることも期待している。

 国境を越え移動する難民にとって、母子の健康を継続的に管理することは非常に難しい。子どもの健やかな成長のためには、予防接種や胎児期・出生直後の健康状態を踏まえた保健医療や栄養対策を、適切な時期に受診することが不可欠だ。

 日本では地方自治体が、もれなく、健診のお知らせでその時期を知らせてくれる。しかし国を超え移動する難民たちは、母子保健を支援してくれるはずである国や地域からは切り離されてしまう。必要な健診や予防接種を受ける保障はどこにもない。そこで、母子手帳を導入すれば、移動先の国でも、継続的に予防接種や栄養対策などを受けることができる。

 母子手帳に記載された予防接種や感染症の既往の記録は、生涯にわたり健康記録として有効な証明となり得る。さらに、言葉も通じない国で、家族や地域社会からの支援もなく妊娠、出産を迎える母親にとって、母子手帳に書かれた母国語での健康教育情報は、心身の健康の命綱ともなるだろう。受け入れ国にとっても、難民の健康管理を行うことは、本国国民の公衆衛生の維持や医療費の削減につながり、一石二鳥だ。

 母子手帳を文字通り「生命のパスポート」として国際社会が認知し、母子手帳の記録に基づき、国を超えて移動しても適切な医療が受けられるよう、国際社会が保障すれば、多くの母子の生命が救われることだろう。

世界の母子、日本の母子のために私たちができること

 母子手帳の恩恵を長く受けてきた日本人の私たちにも協力できることがある。それは、途上国や難民の母子に母子手帳を届けることにつながる支援だ。私たちは市町村から無償で母子手帳を受け取ることができる。しかし、多くの途上国では、母子手帳の良さを認識していても、印刷費がまかなえないことから導入ができないことがよくある。国によっても価格は異なるが、一冊100円にも満たない印刷費であっても、途上国の保健予算では、持続的に負担することが困難である。この印刷費を私たち一人一人が、母子手帳を受け取った時、募金できる仕組みを導入できないだろうか。

 たとえば、母子手帳が途上国支援に役立てられていることを日本の母子手帳に記載し、募金ができるサイトを掲載するのである。サイトでは、途上国の子育てが困難なことや、母子手帳が途上国の母子を救うツールとして役にたっていることを伝える。同じサイトには、日本の両親が小児科医や助産師、保健師と個別に相談できる窓口なども掲載して、日本の母子保健も手厚く支援する。

 子どもの健康を願う気持ち、妊娠出産に苦労するのは、世界共通であることを知ると同時に、日本で様々な有形、無形の支援を受けて出産する喜び、誇りを感じ、子育てに自信を持ってもらいたい。日本の両親は、小さな募金を通じ途上国の親子とつながることで、彼らと一緒に子育てをする気持ちが生まれ、子育ての孤独から解放されるかもしれない。一方、途上国や難民の母子が使う母子手帳では、印刷費の一部が日本の母子からの贈り物であることを伝えられると理想的だ。

 未来の社会を担うすべての子どもたちに適切な保健医療を受ける権利を保障しよう。社会から孤立するリスクの高い脆弱層、国境を越えて移動する難民にも、妊娠前後の健診、子どもの予防接種、健診、栄養対策や治療など、継続的に受診できるよう、国の枠組みを超えて社会全体で母子保健を保障しよう。母子手帳を文字通り「生命のパスポート」として国際社会が認知し、母子手帳を持っていれば、国を超えて移動しても適切な医療が受けられるような仕組みを構築しよう。そしてそこに、日本の私たちも貢献しよう。母子の健康を守ることは、私たちの未来を形成する。すべての母子に母子手帳と母子継続ケアを提供し、格差のない公正な世界を形成しよう。

(※本稿の内容は筆者の個人的見解であり、国際協力機構の公式見解ではありません)

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