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笑いの破壊力と日本

先日の2月28日、ロサンゼルスで行われた「2016年アカデミー賞授賞式」に行って来た。スタジオジブリの「思い出のマーニー」のノミネートを受けてこの作品の制作に僭越ながら一部参加した私が、もっと汗をかいた方を差し置いて、この一大イベントを一目見ようとジブリの関係者に少々無理なお願いして末席ながら随行させていただいたのである。
「思い出のマーニー」は現地では大好評でピクサー・ディズニー作品程の娯楽性・派手さは無いが、デリケートな少女達の心情・内面を描いた非常に挑戦的作品として前評判は意外に高かった。惜しくも賞を逃したが、事前の現地のシンポジウムで西村プロデューサーが「我々、日本のアニメ制作者は『となりのトトロ』の様な楽しめる娯楽作品も作るが、『蛍の墓』の様な戦争や現実の悲惨さを描くアニメーションも制作してゆき、アニメ表現の幅と深さを広げてゆく。」と語り、エンターテイメント至上主義・拝金主義の蔓延る世界のアニメーション業界に皮肉な一石を投じていたのが印象的であった。

当日の会場のドルビーシアターにタキシードを着てリムジンで乗り込む。爆弾の有無を鏡で車の下まで覗き込むという厳しい警備を通過して、レッドカーペットを通過し、着席して会場の雰囲気を味わうと、これはアメリカ映画産業のお祭りであるばかりでなく、映画が現代最高の表現ビジネスであることを世に知らしめるセレモニーであると感じる。米国に取って映画は国策産業に近いのではないかとも感じる。

2016年のアカデミー賞は2年連続、黒人のノミネートが無かったので、多くの映画人が抗議して大問題に発展した。しかし、私は会場で賞の黒人の総合司会のクリス・ロックもスタッフも視聴者も「あのこと」に触れないと思っていた。しかし、さすが米国。冒頭からクリス・ロックがいきなりしゃべりまくる。
「俺も司会を降りろと色んな奴から言われたが、こんな事で騒いでるのは仕事の無い黒人だけだ。」
「アカデミーでは俳優の賞を男女で分けてるんだから別に『黒人主演・助演賞』を作れば全て解決だ。」
「1950・60年代。あの傑作『夜の大捜査線』主演シドニー・ポアチエですらここに呼ばれなかった。あのとき騒がなかったのはもっと大事な黒人の人権を求める公民権運動があったからだ。アカデミー賞なんかで騒ぐ余裕がなかったからだ。今はずいぶん余裕ができたもんだ。」 ABCネットワーク・地上波・全土で放送。このデリケートな場で、この問題に正面切って笑いを取る。会場は爆笑の渦。日本であれば政治問題・人種問題等絶対にアンタッチャブルな問題を避けるだろう。しかし米国は違う、視聴者が今最もしゃべってほしいモノ、つっつけば最大の笑いの対象となるものを笑いのめすのが彼らの仕事、観ている人もそれを求めている。アメリカ人の友人によると、もし彼がしゃべらなかったらブーイングの嵐。下手すると彼の芸能生活は終わるであろうと言う。かように彼我の差は大きいのである。

昨年暮、ヒラリー・クリントン(本物)がNBC放送のサタデーナイトライブ(以下SNL)に登場した。SNLは1975年以来続くナイトコメディーショーで、ダン・エイクロイド、ジョン・ベル―シ、ビル・マーレイ、エディ・マーフィ、スティーブ・マーチンを生んだアメリカ・コメディ・コント番組の金字塔である。
次期大統領候補・ヒラリーは22年間夫・ビル・クリントンの影に隠れていた自分をバーで語り自虐の笑いを取る。そして私がLA滞在中に見たSNLは、冒頭から人気コメディアンによるドナルド・トランプのコント。星条旗の前の演説台でカツラを被り途中から暴走し本人にそっくり過ぎて笑える。今後トランプ氏本人も出るかも知れないとの情報もある。色んな意味で同様の事は日本では絶対に出来ない。SNLに出る政治家の色んな思惑・交渉事もあるだろうが、スタッフは両候補の本質をさらけ出そうと必死だ。アメリカはある意味、何でもエンタテインメントにしまう国である。しかも、タブーにどんどん突っ込ん行く。小保方コントをちょっとやっただけでネットで有象無象に散々叩かれる日本とかなり環境が違うし、こうした時事ネタを扱うとき英米の演者とスタッフは表面的な笑い方はしないのが通例だ。彼らの仕事は結構、本質を掴む腕と知性のいる仕事として十分な敬意が払われているのである。演者もライターも演出も練りに練ってアンタッチャブルなテーマに本物の地雷を避けながら賢明に勇気を持って取り組んで行く。

これは日・米・英の放送免許を与える機関の違いでもあると思う。日本は現在、与党自民党の総務大臣。米国は米国政府の独立機関・連邦通信委員会の委員長。英国は王室・エリザベス女王が免許を出し第三者委員会が監視するので、BBCですらコントで政府与党批判も堂々とやっている。だが、日本では「首相コント」等、逆立ちしても絶対出来ない訳であり、せいぜい『笑っていいとも』の終了間際にゲストとして首相を呼び当たりさわりの無い話しか出来ないのが現状である。だから、日本では大ベテランで時事芸能問題の触り方を熟知している「ビートたけし」が放送は出来ないので『週刊ポスト』でこの問題に絶妙に切り込むとか、意外にシニカルな「笑点」の熟練スタッフにより大喜利でギリギリの線を触れるとか、かなり限定的扱いしか出来なくなっているのが現状だ。テレビでガスが抜けないのだから、ネットがさらに先鋭的な混沌とした言論空間になって行くのは当然の帰結なのかも知れない。

ところで、岩波書店『チャップリンとヒトラー・メディアとイメージの世界大戦』という本を先日読んだ。
わずか、4日違いで生まれた二人の男。一方はナチスドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーとなり、一方は世界的コメディアン、チャールズ・チャップリンとなる。ナチスが台頭してきた時、喜劇王は周囲の制止も聞かず覚悟の闘いに臨んだ。チャップリンの戦場の舞台は映画。その武器は笑い。映画「独裁者」は世界3000万人の観客を集める大ヒットとなった。結果、チョビ髭のインチキ独裁者のチャップリンとアドルフ・ヒトラーのイメージは重なり、本物のヒトラーの演説は形骸化し、演説の回数も激減して行ったという。「担え銃」で第一次大戦を笑い、「モダンタイムズ」で機械にこき使われる人間と資本主義の行く末を笑ったチャップリンには、この独裁者を笑いのめさざるを得なかったのだろう。 笑いには「権威」「偽善者」「危険人物」「世の中のインチキさ」「嘘」を笑いのめして、その本質をえぐり出し、観ている人の前にさらけ出し、既成概念を崩し破壊する能力がある。「裸の王様を笑う道化師」の昔から世界中で「笑いの効用とパワー」は十分に知られている。日本のテレビのお笑い番組の表現力に何か窮屈さと浅薄さを感じる筆者はロサンゼルスのセンチュリー・シティーのホテルでサタデー・ナイト・ライブを観ながら久しぶりに腹の底から笑い、アカデミー賞会場で全世界にテレビ放送された「アカデミー賞」のオープニングトークで唸ってしまったのである。

もちろんこれが出来るのは、我が国日本では無く、ある種限定された国と一部腕のある演者と演出家に限られているのだが。

(了)

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