- 2016年02月27日 13:44
大人は「絶対悪」ではないんだよ~貧困ハイティーンへの支援
■「大人=絶対悪」
貧困ハイティーンと会っていてよく感じるのは、「大人=絶対悪」だと彼女らは彼らは捉えているということだ。
それはまあ仕方がない。大人(実の親やきょうだい、ステップファミリーの親や親の愛人やきょうだい等)の横暴さに日々晒され、長い間それら大人たちの欲望に奉仕してきた結果として(アルバイト代を貢ぐ、家事労働を負担する等)、ハイティーンたちは身近な大人たちに絶対的不信感を抱く。
また、そうした大人たちはコミュニケーションパターンも横暴だ。乱暴で短縮した言葉づかい、暴力としつけの混同等、そうした横暴さに日々晒されていると、ある種の防衛本能として子ども自身も横暴になり、コミュニケーションパターンも荒くなる。
それはそうした大人たちを真似ている部分もあり、また、虐待もどきの(虐待そのものの場合もあるだろう)暴力に晒された結果、軽度の知的障がいに似た状態になることもある(第四の発達障がい)。
その結果、さらに思考能力が衰えていき、横暴さそのものである自分のまわりの大人たちに限りなく似ていく。
貧困と暴力により、ハイティーンの言葉が奪われる。コミュニケーションが不自由になる。そして残るのは、直感的に捉える、「大人は絶対的な悪だ」という、まわりの身近な大人たちへの圧倒的不信感だ。
■「小さな大人」
まわりの身近な大人たちからすれば、アディクション(パチンコ等のギャンブルやアルコール)に呑み込まれた不安な自分自身を冷徹に睨んでくるのがそうしたハイティーンでもある。
大人たちは、貧困ハイティーンの冷徹な視線の意味を十分知っている。だからこそ余計に、ハイティーン(子ども)に対して厳しい対応になる。
その厳しさは、まるで「大人」に対するそれのようだ。
子どもは、イギリス産業革命までは「小さな大人」だったという。6才児だろうが過酷な労働を迫られ、1日12時間以上の労働を課される。産業革命の結果、社会にある程度の余裕が生まれ、「子どもが誕生」した(P.アリエス)が、それ以前の完ぺきに階層化された社会においては、子どもは子どもではなく、小さな大人だった。
そこまで遡ってはいないだろうが、現代の社会状況はそれに向かっているのかもしれない。そうした意味でも現在は「階層社会」の入り口にいると僕は思っている。
■「変な大人」
虐待や横暴なコミュニケーションに晒されてハイティーンになってしまった子ども/若者に対して、我々は何ができるだろうか。
それは、「大人とは全員が悪ではない」と伝えることだと僕は思っている。
しかし、大半の学校の教師をはじめとして、大人はそのことをストレートに伝えることができない。現代の大多数の大人は、全員が「悪」ではもちろんないにしろ、サリンジャーではないがあまりに「偽善」なのだ。
サリンジャーの『ライ麦で捕まえて』風に言うと、あまりに「インチキ」だ。
インチキな大人に対して、これまでのハイティーンたちは怒ってきた。その怒りがさまざまな小説や映画などになっている。
これ(いわばミドルクラス的「インチキ」)に加えて、貧困層のハイティーンは、「悪」な大人にも迫られ、そのヒューマンライツが侵襲されている。
大半の学校の教師(もちろん「魂の教師」的に信頼される人も存在する)はインチキだ。加えて、貧困大人たちは「悪」でもある(貧困大人たちの視点に立てば、貧困大人自身が破滅の手前にいる)。
そうした大人たちの事情から、貧困ハイティーンは、大人たちをまったく信頼していない。
が、信頼を得ることは可能だと僕は思っている。
それは、大人たち自身が「自由」でいること、既存の価値から少しずれて「変」であること、圧倒的誠実さで変であり自由であること、あたりがヒントだと思う。
僕自身、自分なりに誠実で変で自由であることを徹底したことで、一応「支援者」であれた。変な大人は、その社会規範からの微妙なズレ具合のために、ハイティーンから信頼されてしまうようだ。
大人は全員が悪ではないんだよ、相当「変」かもしれないけど、変なりに自由で誠実な大人もたまにはいるんだよと僕はハイティーンに伝えたい。そして、暴力と不信の連鎖をそこで断ち切ってみたい。★
※Yahoo!ニュースからの転載