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関東大震災の知られざる奇跡の物語・『典獄と934人のメロス』著者・坂本敏夫氏インタビュー

大正12(1923)年に起こった関東大震災は、首都東京を中心に関東に壊滅的な打撃をもたらした。1000人近い数の囚人を収容していた横浜刑務所も例外ではなく、外塀が倒壊し、猛火が襲い囚人たちを刑務所にとどめる強制力が失われた状態となったという。今日残っている多くの記録では、災害によって解放された囚人は、強盗、強姦、殺人などの悪行を働き、横浜のみならず東京の治安までも悪化させたとされている。

こうした“史実”に真っ向から挑んだのが元刑務官でノンフィクション作家の坂本敏夫氏。当時の監獄法では、天災地変に際し、囚人の避難も他所への護送も不可能であれば、緊急避難措置として24時間に限り、囚人を解放することができると定められていた。横浜刑務所では確かに「解放」が実施された。しかし、解放された囚人たちは、治安を悪化させるどころか、つぎつぎと決められた刻限までに刑務所に帰還し、その後は支援物資の荷揚げ作業などに協力したというのである。

従来の史実を覆し、囚人たちの知られざる物語を掘り起こして、「典獄と934人のメロス 」という作品にまとめた坂本敏夫氏に話を聞いた。(取材・文:永田正行【BLOGOS編集部】)

解放された囚人は本当に治安を悪化させたのか!?

BLOGOS編集部
-坂本さんは、実際に刑務官としての経験をお持ちです。その坂本さんから見て、今回の作品の主人公である横浜刑務所の典獄(刑務所長)・椎名通蔵(しいなみちぞう)が取った“解放”という判断はどのようにお感じになりますか。

坂本敏夫氏(以下、坂本):まず「囚人が誰も逃げなかった」ということが信じられませんでした。例えば、私が現場にいた時の刑務所であれば、塀がなくなってしまえば多くの囚人が逃げるでしょう。逃げない方が不思議です。

刑務官になったときに受けた初等科研修の中で、「諸君の職責は囚人の身柄を確保すること。つまり、絶対に逃すな!」という教育を受けました。そうした講義の中の逸話として関東大震災の際、外塀が全壊した小菅刑務所と横浜刑務所の話が出て、「東京の小菅には、強盗殺人・強姦殺人などの重罪犯が800人いたのに、1人も逃げなかった。一方、横浜は解放して大変なことになった」となっているのです。

取材を始めたきっかけは、今回の作品のヒロインでもある福田サキさんの娘さんにお会いしたことでした。娘さんにお母さんを紹介していただき、お話を聞くと、ほとんどの囚人が刻限までに帰還したということ、自分も兄の代わりに定刻に間に合うように走ったこと、そして、刑務所長(当時は典獄と言っていた)椎名通蔵という人物は非常に素晴らしい人間だったというのです。

また福田サキさんは、お兄さんが一日遅れで帰還した後も数日刑務所に留まったそうですが、お兄さん以外の囚人も、みんな自分に親切にしてくれたというのです。そして、震災後、朝早くから何キロも歩いて港に向かい、夜遅くまで救援物資の荷揚げという重労働を行う姿を見たと話してくれました。中には、囚人である彼らが作業しているところに石を投げる人もいたそうですが、彼らは黙っていた。そんな姿が印象に残っているそうです。

-本作の主人公である椎名通蔵とは、どのような人物だったのでしょうか?

坂本:椎名さんは、昭和39年に亡くなっていたのですが、昭和初期に幹部職員として椎名さんに仕え、刑務所長になっていた一番弟子、二番弟子といった人たちに当時の様々な話を聞かせていただきました。また、当時部下だった人たちにも話を聞きました。

まず驚いたのが、椎名さんが横浜刑務所に着任したのは、大正12年の5月、震災の被害に遭うまで4ヶ月間しかなかったにもかかわらず、囚人たちとどのように信頼関係を築いていたのか、でした。

彼は幹部たちに「刑務所の管理は信頼関係の構築にある。職員だけではなく、収容者、受刑者、被告の名前、家族関係を全部覚えろ。3ヶ月で覚えろ」という話をしていたそうです。

刑務所のトップである典獄から、名前を呼ばれて、「お母さん元気か?」などと声を掛けられれば囚人たちもうれしくないわけがありません。こうした信頼関係を構築できたからこそ、囚人たちは解放後も帰還したのだと思います。並の典獄であれば、解放なんて絶対出来ません。

-執筆にあたっては、資料を集めるのにかなり苦労したと思いますが。

坂本:囚人が刑務所に入所すると、必ず「身分帳」というものを作ります。裁判記録から、所内での交流、交信、行事などの様子といった情報を1冊にまとめたもので、移送時には必ず一緒に持って行きます。これは非常に重要な書類なので、震災の時もすべて火事になる前に運び出していたのです。

昭和62年頃、実際に自分が関東の刑務所に勤務していた時に、横浜刑務所から解放された男が出頭した記録を見つけました。そこには椎名さん直筆の送付状がついていたのです。その「解放囚」をきちんと取り扱ってくれるよう懇請した内容で、感激しました。それから本格的な取材をはじめました。解放囚932人全員が無事に帰還(一部は他の刑務所に出頭)したことを知って、何としてもこれを伝えなければと作家を志したのです。

しかし、その他の公的な記録は残っていませんでした。刑務所や法務省に今回の話を裏付ける公文書はなかったのです。そのため、実際に歩きまわって、個人の日誌や記録をお借りして調査していきました。そうやって集めた情報を「これは実際にあった話」「これはちょっと怪しい」というようにひとつずつ吟味して、30年近い月日をかけて、今回の作品を完成させたのです。

震災後の混乱や不信感で囚人に責任が押し付けられたケースも

-帰還した後に囚人たちが、どのように処遇されたかも明らかになっているのでしょうか。

坂本:横浜刑務所に帰還した者のうち450人余は、名古屋刑務所に移送されました。横浜刑務所に帰還せずに、他の刑務所に出頭した囚人も100人程度いました。函館や鹿児島、最も遠いところでは北朝鮮の平壌の刑務所に出頭したものもいたそうです。

椎名さんは自ら各刑務所に照会して、自分が解放した囚人たちを探していきました。そして、各刑務所長に取り扱いについて配慮をいただくように手紙を送ったのです。

―ただ、こうした椎名や囚人たちの行動が、正しく評価されることはありませんでした。

坂本:横浜では税関倉庫が若者たちによって荒らされたりする事件がありましたが、そういったものも囚人のせいにされていたようです。

いっぽう解放後の囚人たちには「社会と関わりたい」という気持ちがあるものもいたのだと思います。だからこそ、震災時には荷揚げの作業に従事し、それ以外の囚人たちも刑務所の構内から外に出入りしていました。彼らが何をしていたかといえば、近所の片付けを手伝ったりしていたのです。

なので、近所の人達には、随分感謝もされているのですが、被災地でそういう状況が長く続くと、いろんな噂が立ちます。何か物が無くなったときに、「囚人のせいじゃないか」と言い出すようなことが出てきます。ですから、なるべく早く他所の刑務所に移送してやろうという動きはあったようですね。

当時の新聞などを見てみると、それこそ大震災発生から数ヶ月たった10~ 11月頃まで、様々な真偽不明なことが書いてあるわけです。そして、そうした新聞の描写が、阪神淡路大震災や東日本大震災などが起きた時に、“関東大震災の記録”として引っ張りだされて本になったりする。「新聞載っているから本当だ」ということになりますが、震災発生後は様々なデマや流言蜚語が乱れ飛ぶ非常に混乱した状況でした。そういう中で、都合の悪いことや不祥事が起きると、これ幸いに「囚人のせいにしちまえ」ということもあったと思います。

管理を強化する方向に向かう刑務所

-主人公である椎名通蔵は、刑務所を教育・更生のための施設という考え方を持っていました。刑務所が、刑罰と教育・更生どちらに重きをおいた施設なのかという議論がありますが、実際に刑務官としてのご経験をお持ちの坂本さんはどのようにお考えですか。

坂本:一概に言えない部分もありますが、現在の刑務所と当時とでは状況が違います。椎名さんが典獄を務めていた時代の横浜刑務所は更生させる刑務所でした。当時は中央官庁と各刑務所をつなぐ通信手段がそれほど発達していませんでしたし、一人の人間が5~10年という長期間にわたって典獄を務めます。そうすると、自分の担当施設内では自分のポリシーで、受刑者達の処遇を決めることが出来るのです。

40年程前から処遇が統一され横並びになりました。それがFAXで簡単に通達が書面で送られるようになると新しいことは出来なくなります。所長も含めて、幹部たちは、受刑者を更生するというより、「逃がさない」「自殺させない」「殺人・傷害事件を起こさせない」といった大きな不祥事を起こさないことを一番に考えるようになります。事なかれ主義というのか、管理を強化する方向に向かうのです。

-かつては開放的な処遇をしていた刑務所もあったようですが。

坂本:現在は、ほとんどないですね。

少し長くなりますが、時代背景からお話しすると戦争に負けた時に、刑務所の収容人員の枠は4万人程度でした。しかし、受刑者は8万人ほどいたので、北海道の開拓といったような公営作業に従事させたのです。

その後、昭和30年代~40年代前半までに、開放処遇の動きが広まります。応報刑から教育刑に転換するのです。一番早かったのは、四国の松山にある大井造船作業所で、これはまだ残っています。その他にも、全国から有能な受刑者を集めて建築や農業機械の免許を取得させるといった試みをやっている刑務所があったのですが、現在はほとんどなくなってしまいました。

こうした開放処遇が後退した理由の一つには、1970年代にベトナム戦争反対などの左翼運動の高まりがあります。活動家が逮捕されれば、仲間の奪還、あるいは暴動など刑務所内で事件を起こそうと画策しているなどという噂も流れます。こうした事態に対応するためには、開放処遇などしていられません。塀の外の農場や工場での活動をやめて、塀の中に取り込んで、がんじがらめにしてしまいました。

私自身も22~23歳の時に、ヘルメットにアルミの盾を持って訓練を受けました。デモ対策のために、刑務所の前に大きなバリケードを作ったりもしていました。当時は、どこの刑務所もやっていたと思います。

それ以来、管理が非常に楽になったのです。軍隊式の訓練もして、集団行動をやらせて、言うことを聞かせれば刑務官たちは楽になります。それが今までずっと引き継がれてきているので、いつしか「更生させる」というポリシーを持った所長がいたら潰されるような環境が出来上がってしまいました。

-最後に今後の執筆予定についてお聞かせください。

坂本:明治・大正・昭和三代120年の刑務所の真実を書き残すことをライフワークと考えています。次は日支事変から終戦までの戦時行刑、終戦後のGHQ行刑について書き始めています。

植民地行刑、あるいはインドネシアなど第二次世界大戦の占領地行刑などの史実は埋もれています。近代行刑を指導した日本人刑務官たちの偉業・日本人の魂の本質にもつながる感動がそこかしこにあります。

プロフィール

坂本敏夫(さかもととしお):ノンフィクション作家。1947年生。67年、大阪刑務所刑務官に採用される。その後、神戸刑務所、大阪刑務所、法務本省事務官、黒羽刑務所、東京拘置所などで課長を歴任。94年、広島拘置所総務部長を最後に退官。著書に「死刑執行人の記録」「刑務所のすべて」「誰が永山則夫を殺したのか」などがある。

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