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澤昭裕・最期の1週間 がんと向き合い綴った原子力論 - WEDGE編集部 大江紀洋

 「ほんまにみんなありがとう」。うつむいた澤昭裕さんは、泣いていた。「みんな、仕事に行って下さい。30年もあるんやから無理せんように」。それが、編集者として原稿を預った私が聞いた最後の言葉となった。

 体調がすぐれないので、約束していた原稿はお休みさせてほしい――。そんなメールを頂いたのは昨年12月18日のことだった。私は、福島論(Wedge1月号に掲載)のやりとりをしている最中に、次は原子力論を書いてほしいと欲をかいた。澤さんも乗り気で、11月の段階では順調に執筆中という連絡をもらっていたので、切迫感のあるメールに呆然とするほかなかった。でも、澤さんが仰っているのは「お休み」だ、そう思いなおして、「もちろん体調最優先です。回復を祈っています。良くなられたらやらせてください。聞き書きでもなんでもどのようなことでも使ってください。馳せ参じます」と夢中でメールを打ったら、「すみません、助かりました」とすぐお返事が来た。

 1月8日夜、携帯電話が鳴った。「あの原稿、仕上げたいので、明日病室に来てくれませんか」。もちろんです、とお答えしながら、崩れ落ちた。澤さんはいつも、自らの手で完璧に原稿を仕上げる方だったからだ。

 1月9日朝、聖路加国際病院の病室で、国際環境経済研究所で長年研究のパートナーをされていた竹内純子さんや私を前に、澤さんは、淡々と仰った。年末年始、病状が思わしくなく、主治医によると余命が1カ月を切ったから、みんなの力を借りて原稿を仕上げたい――。

 その後2回、1月13日と14日に訪問した。思考力の維持のためモルヒネの量を調節しているのか、日に日に痛みが増しているようだった。徐々にメールも読めなくなり発声もしづらくなった。それでも懸命に推敲の指示を出された。14日、原稿が完成したとき、かけていただいたのが冒頭の言葉だった。

 2日後の1月16日2時39分。澤さんは、息を引き取った。58歳の若さだった。

 澤さんの妻・伊津美さんが、澤さんの最期の1週間の様子を書いてくださったので、ご紹介したい。

夫が原稿と向き合っていたあの時期、原稿を書く以外でどんな状態だったのかを知っていただきたく少し書いてみようと思います。

  1月4日に入院が決まって、救急で診察を受けた後で病室に入りましたが、夜は特に相当苦しかったようで、痛い、辛いと繰り返していました。腹水を抜いてろ過し戻す処置が行われると少し楽になりましたが、その後、少しずつ痛みがまた出始めました。

  8日になり、免疫療法のクリニックの返事が3カ月の治療が必要だと言うことがわかり望みが絶たれて、さすがにショックを受けたと言いました。その夜に原稿チームの皆さんに電話をし、早めに原稿を仕上げることを決断したようでした。ただ、まだ生きる希望を持ち、他の免疫療法のクリニックを調べてほしいとも言われました。

  9日午後から10日にかけて、徐々に左手も麻痺が始まり、腹水が抜けず痛みも増し、気持ちの余裕もなくなってきているようでした。PCや電話が使えなくなってきて、こぶしでベッドをたたきながら「悔しい」と機能がどんどん衰えていくことへの悔しさを表したり、「だれかと首から下を交換できたらいいのになあ」と言ってみたり、私や看護師さんにも不平不満を言うようになったり。仕事をしているときは気が紛れてもそれ以外はそのような感じでした

  いつ亡くなってもおかしくないと思っていたのでしょう。夜独りで逝きたくないと思っていたのか、3度ほど朝までそばにいてほしいと頼まれました。10日と12日と14日の夜です。1、2時間おきに起きる夫の体をさすったり撫でたりして朝を迎えました。そうしていると少し痛みも治まり安心するとのことでした。

  苦しかった14日の夜が明け、15日朝、先生にエコーで診ていただいたら、痛みも原因はもう腹水ではなく、腸がむくんでパンパンに腫れているからだと言われ、もう痛みを取る手段がないことを知らされました。痛みから解放してあげられるのは緩和ケア病棟に行くことしかなく、ちょうど部屋が空いたと言う話がありましたから、決断しました。意識がある本人からの同意がほしいと先生が来られましたが、返答する力も残っていなく、反応しなかったので、私が「私が決めたことをするということでいいわよね?」と聞いたら、うなずいてくれました。それで緩和ケア病棟に行くことになりました。

  緩和ケア病棟の病室に落ち着いて、痛み止めと眠剤で少し楽になった夫を診察した医師に診断結果について話があると妹夫婦と別室に呼ばれました。

  そこで告げられたのは残された命は日にち単位、早ければ今晩ということでした。それを聞いたときはやはり絶句してしまい、今まで泣かずに我慢してきましたが、あふれる涙を止めることはできませんでした。

  それだけぎりぎりのところだったのだろうと思います。

  病室での夫は薬が効いて穏やかに寝息を立てていました。少しでも苦しそうな感じになると薬を入れてもらえましたし、それもすぐ効いてゆっくり寝ているようでした。

   旅立ちは苦しみもなく穏やかにやってきました。痛みにゆがむ顔を見てきましたから、本当に眠るように逝ってくれたことはよかったと思っています。

  本当に本当に苦しい中、書き上げたこの遺稿をどうかたくさんの人に読んでいただき、夫の気持ちや言葉が読者に伝わりますように願ってやみません

 澤さんが、これほどにまで苦しみながら、書き上げたのは原子力体制論だった。

編集作業に尽力いただいた竹内純子さん(国際環境経済研究所理事・主席研究員)が、2月19日付電気新聞の書評欄に、これまでの取り組みを踏まえた澤さんの思いを紹介されているので、電気新聞編集局のご厚意を得てここに転載させていただく。

◆読まざる者、電力を語るべからず

「原子力を殺すのは原子力ムラ自身である」

  澤氏が、日本のエネルギー供給の脆弱性を考えれば原子力技術は必要であると主張し続けてきたこと、福島事故の直後からぶれることもひるむことも一切無かったことは、読者の皆様には先刻ご承知であろう。しかし日本の原子力事業は外部環境も内部事情も課題だらけで、戦略なき脱原発への途をひた走っている。澤氏は、我が国において原子力技術を維持するのであれば解決しなければならない課題を一つ一つ取り上げ、現実的な解決策を提言し続けてきた。原子力損害賠償法に始まり、原子力事業の環境・体制整備、核燃料サイクル政策、安全規制のあり方、そして福島復興と、次から次へと新たな課題に挑戦し続けた。無責任な脱原発論や安易な原発回帰論には目もくれず、日本の原子力事業が生き残るための一筋の道に積もったがれきを、一人黙々と片付け続けていたようにも思える。

  福島事故から5年が経とうとし、かつ、自らに残された時間がわずかであるのに、一向に事態が進展しない状況にしびれを切らし、先送り体質に蝕まれた関係者一人一人の胸倉をつかんで叱咤したい気持ちだったのではないか。冒頭の強いメッセージはその表れであろう。その強い思いは何のためか。すべては日本国民のためである。

「万が一の場合に、その結果責任を負うことになるのは、国民だ」

  こんな言葉を遺し、最期まで公僕たることを貫いた人間がいることを、一人でも多くの国民に知ってもらいたい。電力関係者は当然のことながら、政治家、政府関係者にもこの論稿を読んでいただきたい。これを読まざる者、電力を語るべからずである。

  一人黙々と取り組んできただけに、自分がいなくなってその道が閉ざされることになることを強く懸念したのであろう。病室に伺った折やメールで、何度も「後を継いでな」、「頼んだで」と今後を託そうとされた。それは私に預けられた言葉ではあったが、エネルギーに関わる方すべてに向けたメッセージだったのではないか。

  病床で強い痛みと戦いながら、自身の構想を口述し、亡くなる2日前にその完成を確認して旅立たれた。まさに最期の力を振り絞って遺した提言である。

(2016年2月19日付 電気新聞 [本棚から一冊])

 澤さんは、遺稿の中で、課題がほとんど放置されたまま膠着する原子力について、何にも誰にも一切遠慮することなく、内角高めの剛速球を投げ込んでいる。澤さんが投げたボールに対し、ただそりかえってベンチに引き揚げるのか、真正面から向き合ってバットを振るのかは、後に残された人々次第である。

澤さんは、特に若手に期待していると思う。電力会社、メーカー、霞が関、政治家、すべてのセクターから、熱意ある若手が現れ、力を結集して、日本の将来のためにエネルギー政策を論じ、形作っていることを望んでいるだろう。人一倍、若手に対し、目をかけ、育てようとする人だったからだ。

 最後に、告別式での妻・伊津美さんの挨拶の内容を紹介して本稿を締めくくりたい。がんと向き合い、人生を生き抜いた澤昭裕さんのご冥福をお祈りします。

  夫は58歳という若さで旅立ちましたが、だれよりも凝縮し充実した人生だったのではないかと思います。

  夫は結婚前から自分は長生きできないだろうと申しておりました。それは学生の頃肝炎を患い、闘病生活の中で思い至った考えだったようです。自分の人生が短いなら社会に貢献する仕事がしたいと公務員を選んだとも話しておりました。

  言葉通り身を粉にして仕事をしてまいりました。そのような夫の思いを知っていましたし、仕事一筋でも何かあった時に私のことを1番に考えてくれるという確信を持てましたので、今までパートナーとして共に歩んでこられたのだと思います。

  体調が急に悪くなった12月末、夫から最後のメッセージというメールをもらいました。その手紙の中で、夫は葬儀のことにも触れております。夫の言葉をお伝えします。

  自分はいい友人先輩後輩に恵まれ、幸せな人生やった。だから弔問にきてくれる方々に自分の代わりに感謝の気持ちを込めて頭を下げておいてな。特に若い人たちが来てくれたら、子供がいなかった分、自分の後継者だと思って育てたり、接したりしてきた人たちが多いはずだから、その人たちの未来を一緒に祈ってあげてな。

  葬儀の時に、挨拶してもらう時も、参列してくれる皆さんに、「ほな、またね」(アメリカの友人にはSee you again)と伝えてください。

  本日はお別れに来てくださり本当にありがとうございました。

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