- 2016年02月09日 13:26
口パクを聴く――ウガンダのショー・パフォーマンスの現場から / 大門碧 / 人類学
2/3口パクに求められるもの
もちろん口パクがステージで披露されるのはウガンダに限らない。身近なところでは渡辺直美がビヨンセの、はるな愛が松浦亜弥の、歌に合わせて口パクする芸がある。これらの芸はオリジナルの歌手に似せることと同時に、本物とは異なるところを強調して、たぶんにパロディの要素が含まれたパフォーマンスとなっている。
歌手も口パクをおこなっている。たとえば3人組の女性ユニットPerfumeは、口パクであることが当然視されている。彼女たちの場合、歌声にエフェクトをかけるテクノ・ポップや、うたいながらでは不可能なダンスの魅力が認められ、「その場でうたっていない」ことは問題視されていないようだ。またTM Networkのギタリストが、デビュー当時からギターを弾くまねをしていたことをテレビ番組で告白したのは今年1月のことだ。仲間内では知られていたものの、本人はファンをだましている罪悪感にかられていたという。そして、ギターを弾くまねを徹底的に訓練する一方で、ライブでは竹馬に乗るなど曲芸まがいのこともした。
1980年代以降、コンピュータでの楽器演奏が容易になり(注)、電気が供給される限り歌も録音を流して奏でられるようになった。そうして演者は、「その場で実際にはうたわない(演奏していない)」としても、できるだけ「実際にうたっている(演奏している)ように見せる」ことに邁進し、加えて「うたう(演奏する)以外のパフォーマンス力を高める」ことを目指してきたと言えるだろう。同じことは口パクをする芸人たちにも指摘できる。観客は「実際にうたう(演奏する)」ことを前提としているし、そうでないのならば「その場でうたっていない」ことを補ってあまりある価値を求めるからである。
(注)電子楽器の発展と演奏者の身体との関係性、電子楽器で奏でられるテクノ・ミュージックとそれに合わせておどる身体との関係性については、増田(2008)が論じている。
ウガンダにおける口パク
この状況を当然とするとき、ウガンダのカリオキで登場する口パクには疑問を感じざるをえない。うたう身振りを見せることをメインにおいたマイムの場合、衣装はオリジナルの歌手に合わせるよりも、見栄えのする格好をすることに重点がおかれている。よってパロディの要素もほとんどない。そしてパフォーマーたちは歌詞を覚えることを重要視していない。ある曲の歌詞を知っているかどうかについてパフォーマーと話をしていたときに「私たちも知らない。私たちは(ステージ上で歌詞に)出会うの」と言われたこともあった。なんの曲が再生されるかわからないままステージにあがるパフォーマーの姿も目撃した。
このパフォーマンスのあり方に対する批判もある。カリオキが公演されるようになった2000年ごろからカリオキをしていた人は、「(私たちはオリジナルの歌手のことを)よく知っていた。インターネットから歌詞をプリントアウトして、何を言っているか完璧にわかるようにした。今では知らない曲なのに行く。人びとをだましている」と語る。この批判は、今のカリオキがおざなりな口パクであることを表すと同時に、客も実際にうたっているような緻密な表現を求めていないし、オリジナル歌手のモノマネやそのギャップを楽しむ芸にばかり価値を置いているわけでもないことを示している。
画像を見るマイムの様子(2012年3月9日筆者撮影)
カリオキ以外の芸能関係者からの批判もある。振付師は「かれらはマイムをしているだけ、ダンスはラガー(おそらくダンスホール・レゲエに合わせたダンスのこと)しかしていない」と話し、国立劇場の技術スタッフは「マイムは新しいもので、仕事のない若い人たちが暇つぶしにしている」と言い、歌手は「(カリオキでは歌の)ピッチを上げる。ちゃらちゃらーって、音楽へのリスペクトがない。漫画みたいにしている」とぼやくなど、いずれもカリオキを嫌がる発言をしていた。カリオキに対して、専門性が高くなく素人っぽい芸であるというネガティブなイメージがあるようだ。しかし、ここでも「その場でうたっていない」ことに関する非難は聞こえてこない。
カンパラに生で歌を聞く場がないわけではない。有名な歌手たちが集まって開くコンサートは、クリスマスなどの宗教行事に合わせて年に数回おこなわれるし、街なかにあるバーでは、毎週特定の歌手たちがうたいにくるイベントが開催されている。庶民でもがんばれば行けないことはない。生の歌を聴く機会がないから口パクで満足しているというわけでもないだろう。
カンパラでは歌を口パクすることにネガティブなイメージがないと感じたのは、教育現場で口パクを見たときである。ウガンダでは、小学校や中学校の校内で、もしくは学校同士が対戦するかたちで、芸能のレベルを競う大会がおこなわれているが、その演目のなかに、複数名で口パクをしながらその歌を演劇的に表現するものが含まれることがあるのだ。いくつかの小学校では、口パクでのパフォーマンスが教授内容にも入っていた。口パクは表現のひとつとして存在しているのだ。
画像を見る伝統的な結婚式で口パクする筆者。あらゆるイベントで口パクは人びとを楽しませるものとして登場する。(2011年7月31日撮影)
1977年に活動を始め、2006年にはカンパラの中心部に劇場を開いた老舗劇団「エイボニーズThe Ebonies」もまた、芝居の合間に歌を流して口パクすることで「ミュージカル」を公演している。前もって録音しておいた台詞を流し、それに合わせて身体を動かし芝居をすることもおこなっている。これは、客席数が700を超える大きな劇場において、客席の隅々まで台詞を届けるために仕方のない手段とも考えられる。しかし、2014年には主だった役者がピンマイクを所持するなか、録音で台詞を流して演じる場面も残されていた。
歌手を目指す人たちが自分の歌を宣伝するために参加する「タレント・ショー」もまた口パクである。カリオキと同じく盛り場のステージでおこなわれ、コンピュータ上で歌が再生される。音の出るマイクが用意されていて、再生される歌に合わせてうたうこともあるものの、途中から演者は歌声をかさねることをやめて口パクに徹するのである。自分の歌なのに、だ。そこでは口パクしていることがまるで「うたっている」ことと同じような意味をもっているのである。
これらのことを考慮すると、カンパラの人びとが単に設備が整っていないために口パクを選択しているとも言いきれないのだ。



