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- 2016年02月07日 19:56
玉石混合? 医学論文の価値
雑に医師を二種類に分けると、
論文を書く医師と、 論文を書かない医師、の二種類がいます。
人によっては、 医師は皆、小難しい英文論文を読んだり書いたりしていると思っている方もいらっしゃるかもしれません。
しかし実際はといいますと、 むしろ論文をよく書く医師は全体の中ではごく一部です。
変なことを言ってしまうと、 別に論文を書いたりせずとも、 医師として臨床能力を高め、働いて生きていく上では問題は特にありません。
論文を書いたからといって、それで直接儲かるわけでもありませんしね。
では、なぜ論文を書く医師がいるのかというと、 これは2つの側面があります。
一つは、 これは言うまでもなく当然のことですが、
医師というのは学者でもあらねばならないからです。
医学の進歩のために日々医師は考え、 新しい知見、珍しい知見を得ることがあれば、それを人類共通の知識とすべく論文の形にしなければなりません。
つまり、論文を書くというのは、 医師として、アカデミアとしての責務であるとも言えます。
これが、 医師が論文を書く上で、最も基本的かつ崇高な理由です。
しかしながら、 やはり世の中それだけではありません。
それは何かというと、 皆さんも白い巨塔やドクターXをはじめ、いろいろな医療ドラマを見て、お気づきになるかとは思うのですが、
論文には医師の手柄、という側面があるのです。
つまりは、医師が大学や国公立施設などのアカデミックポストで出世、権力を得る為の要素として、重要なのが論文などの学術的な業績なのです。
もちろん、 優れた論文を書いた人間、つまり学問の世界で優れた業績を上げた医師が、 アカデミックポストの地位を登って行くというのは、理にかなっているとは思います。
ただ、問題は、 たとえば教授争いなどに代表されるように、論文などの業績が争いのための道具となりうることです。
そうすると、 業績のための論文、というようなことになりがちです。
あってはなりませんが、研究自体も、業績を重ねるための、
つまり、 論文のための研究、というようにもなりかねません。
論文の評価というのは、 どれだけ権威のある医学雑誌にのったかということで評価をされるのが、 未だに一般的です。
医学雑誌にはそれぞれ、インパクトファクターと呼ばれる点数がついていて、 その点数で掲載された論文も評価されるのです。
日本ではいまだに、業績である論文のインパクトファクターの総和が業績の量として判断されがちです。
よって、 論文の数が増えれば増えるほど、業績が増える、という風に考えるのが一般的なのです。
つまり、 論文になりそうなものであれば、なんでも論文にしてしまおう、という考えがあってもおかしくありません。
その結果として、たいして学術的な意義の大きくない論文が無数に生まれることになります。
もちろん、 権威のある雑誌であればあるほど、 その論文を掲載するかどうかについては厳しい査読が行われます。
ところが、 そうでない雑誌も山ほどあります。
2-3名の査読者が、「まあ、良し」と判断すれば載ってしまうような雑誌の方が一般的なのです。
世界トップクラスの雑誌ですら、STAP細胞論文のようなことが起こるのですから、 この辺は結局のところ、所詮人間が判断しているといわざるをえません。
雑誌のランクが下がればなおさらのことです。
さらには人間が判断するものですから、コネの要素だってないわけではありません。
「彼のボスのなんとかさんのところにはお世話になってるからな、 彼の業績にもなるし、載せてやろう」
なんていうことも、ありえないかというと、そうでもないでしょう。
色々話がそれましたが、 結局、何が言いたいかというと、
世の中には人類の遺産とも言うべき論文がある一方で、 無数のたいしたことない論文があるということです。
中には、 これ、ほんと? 都合よく解釈したんじゃないの??
という怪しい物まで、山ほどです。
わりと良い雑誌にもそういう論文が平然とのってたりするもんですから、 まあ、まさに玉石混合です。
有名な雑誌に、全文英文で、それっぽく載っていても、本当の価値は一概には言えません。
要は、i PS細胞の論文や、 アインシュタインの相対性理論の論文がある一方で、
STAPみたいな論文もあるということです。
まあ、もちろん、 虚偽の内容でさえなければ、どんな論文でもそれは人類共通の知識となるわけですから、
論文を書かない人よりは書く人の方が立派であるということには、 間違いはありません。
出世や見栄のためにおかしな論文を世に送り出すようなことをする人がいつの世にもいることが、 問題なだけなのです。
論文を書く医師と、 論文を書かない医師、の二種類がいます。
人によっては、 医師は皆、小難しい英文論文を読んだり書いたりしていると思っている方もいらっしゃるかもしれません。
しかし実際はといいますと、 むしろ論文をよく書く医師は全体の中ではごく一部です。
変なことを言ってしまうと、 別に論文を書いたりせずとも、 医師として臨床能力を高め、働いて生きていく上では問題は特にありません。
論文を書いたからといって、それで直接儲かるわけでもありませんしね。
では、なぜ論文を書く医師がいるのかというと、 これは2つの側面があります。
一つは、 これは言うまでもなく当然のことですが、
医師というのは学者でもあらねばならないからです。
医学の進歩のために日々医師は考え、 新しい知見、珍しい知見を得ることがあれば、それを人類共通の知識とすべく論文の形にしなければなりません。
つまり、論文を書くというのは、 医師として、アカデミアとしての責務であるとも言えます。
これが、 医師が論文を書く上で、最も基本的かつ崇高な理由です。
しかしながら、 やはり世の中それだけではありません。
それは何かというと、 皆さんも白い巨塔やドクターXをはじめ、いろいろな医療ドラマを見て、お気づきになるかとは思うのですが、
論文には医師の手柄、という側面があるのです。
つまりは、医師が大学や国公立施設などのアカデミックポストで出世、権力を得る為の要素として、重要なのが論文などの学術的な業績なのです。
もちろん、 優れた論文を書いた人間、つまり学問の世界で優れた業績を上げた医師が、 アカデミックポストの地位を登って行くというのは、理にかなっているとは思います。
ただ、問題は、 たとえば教授争いなどに代表されるように、論文などの業績が争いのための道具となりうることです。
そうすると、 業績のための論文、というようなことになりがちです。
あってはなりませんが、研究自体も、業績を重ねるための、
つまり、 論文のための研究、というようにもなりかねません。
論文の評価というのは、 どれだけ権威のある医学雑誌にのったかということで評価をされるのが、 未だに一般的です。
医学雑誌にはそれぞれ、インパクトファクターと呼ばれる点数がついていて、 その点数で掲載された論文も評価されるのです。
日本ではいまだに、業績である論文のインパクトファクターの総和が業績の量として判断されがちです。
よって、 論文の数が増えれば増えるほど、業績が増える、という風に考えるのが一般的なのです。
つまり、 論文になりそうなものであれば、なんでも論文にしてしまおう、という考えがあってもおかしくありません。
その結果として、たいして学術的な意義の大きくない論文が無数に生まれることになります。
もちろん、 権威のある雑誌であればあるほど、 その論文を掲載するかどうかについては厳しい査読が行われます。
ところが、 そうでない雑誌も山ほどあります。
2-3名の査読者が、「まあ、良し」と判断すれば載ってしまうような雑誌の方が一般的なのです。
世界トップクラスの雑誌ですら、STAP細胞論文のようなことが起こるのですから、 この辺は結局のところ、所詮人間が判断しているといわざるをえません。
雑誌のランクが下がればなおさらのことです。
さらには人間が判断するものですから、コネの要素だってないわけではありません。
「彼のボスのなんとかさんのところにはお世話になってるからな、 彼の業績にもなるし、載せてやろう」
なんていうことも、ありえないかというと、そうでもないでしょう。
色々話がそれましたが、 結局、何が言いたいかというと、
世の中には人類の遺産とも言うべき論文がある一方で、 無数のたいしたことない論文があるということです。
中には、 これ、ほんと? 都合よく解釈したんじゃないの??
という怪しい物まで、山ほどです。
わりと良い雑誌にもそういう論文が平然とのってたりするもんですから、 まあ、まさに玉石混合です。
有名な雑誌に、全文英文で、それっぽく載っていても、本当の価値は一概には言えません。
要は、i PS細胞の論文や、 アインシュタインの相対性理論の論文がある一方で、
STAPみたいな論文もあるということです。
まあ、もちろん、 虚偽の内容でさえなければ、どんな論文でもそれは人類共通の知識となるわけですから、
論文を書かない人よりは書く人の方が立派であるということには、 間違いはありません。
出世や見栄のためにおかしな論文を世に送り出すようなことをする人がいつの世にもいることが、 問題なだけなのです。



