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日本人初の挑戦も味わった敗北 “夢を追う男”の追い求めるものとは 冒険家 阿部雅龍さん - 大元よしき

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 普段は粋でいなせな人力車夫として浅草を訪れる観光客を楽しませている。しかし、本職は「冒険家」という阿部雅龍氏にお会いした。名刺には「夢を追う男」と記されている。冒険家と人力車夫というギャップもさることながら、少年のようなくったくのない笑顔の阿部氏からは、命がけの旅に出るような屈強さは感じられない。自然体で、つかみどころがなく、それでいて溢れんばかりの生命力を感じさせる人である。

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冒険家と人力車夫の顔を持つ阿部雅龍さん

 本稿のテーマはそれぞれのアスリートに競技人生最大の「敗北」を振り返っていただき、その負けから何を学び、何を克服し、どのようにして立ち上がっていったのか、その心のあり様に焦点を当てるというものであるが、はたして冒険家の「あの負け」とはどんなものだろうか。

自然に囲まれ、冒険心を育んだ子ども時代

 阿部雅龍。1982年秋田県生まれ。

 「幼少期の最初の記憶は、父親のお葬式です。僕が4歳のときに父親が29歳で亡くなりました。交通事故でした。あのとき僕は幼いながらも『人間って死ぬんだ』ということを感覚的に知りました。それ以降、『人は死ぬもの』という意識がいつもどこかにあって、それが僕の『人生を後悔しないために自分は何がしたいのか』という行動の基準になっていきました。幼い頃に父が亡くなっていなかったら冒険家としての僕はいなかったと思います」

 父親の死後、阿部の生活環境は一変。母方の家に引き取られ、祖父母と母、牛や馬たちと自然に囲まれた生活が始まった。父親が亡くなるまで自分に母親がいることを知らされていなかったせいか、しばらくの間は激変した環境に心を閉ざしてしまったけれど、山の中で自然と触れ合う暮らしが、少しずつ阿部を変えていった。人付き合いはあまり得意ではなかったが、近所のごく親しい仲間と山の中に秘密基地を作って遊ぶのが好きだった。

 「それが僕と自然との最初の触れ合いです。誰にも束縛されずに自分のままでいられるから、自然のなかは居心地がよかったんでしょうね。あそこでの生活が無ければ冒険家としての僕はなかったと思います」

 小学生の頃は、アムンゼン、スコット、マゼラン、コロンブスなどの探検ものや冒険ものの本を読むのが好きだった。中でも同郷人である白瀬 矗(しらせ のぶ)の極地探検の物語には胸を躍らせた。
-白瀬 矗、1861年 秋田県に生まれる。
  お寺の長男として生まれながらも、極地探検を志し陸軍教導団騎兵科に入団。1909年、北極点の踏破を目指すも、アメリカの探検家ピアリーに先を越され目標を南極点へ変更した。
  そして1910年11月に芝浦港を出航。途中、様々な困難に出合いながらも、1912年1月20日、白瀬隊は犬ゾリで南極点に向かった。しかし、氷点下20度の極寒の地では装備に限界があり、それ以上の進行を断念せざるを得なかった。
  同年1月28日、白瀬は南緯80度05分、西経156度37分の地点に日章旗を掲げ、そこを「大和雪原(やまとゆきはら)と命名し、帰国の途についた。1年7カ月の命がけの長旅だった。(参考:白瀬南極探検隊記念館HP)-

 後年この白瀬の挑戦が阿部の人生を変えるのである。

就活に悩み、人生の転機を迎える

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ヒッチハイク中の阿部さん

 秋田大学工学資源学部機械工学科に進学した阿部は、空手道場の内弟子として道場に住み込み、勉強と稽古に励んだ。空手を始めたきっかけは、第一志望校の受験に失敗したからだ。

 「宇宙物理学を目指していたのですが、受験に失敗して、心が折れてしまって、そのはけ口として空手を始めました。学生生活はそれなりに充実していたと思います。でも周りが就職活動を行う時期になっても、僕には入りたい会社もなければ、機械工学を究めようという考えもありませんでした。自分はこれからどのように生きていけばいいのか、その選択肢すら持っていなかったのです」

 悩み抜いたときに、幼い頃に冒険家に憧れていたことを思い出した。だが、大学3年生の阿部には、「冒険」というものが、現実的なものには思えなかった。

 ただ、その思いは絶ち難く、現代の冒険家たちのインタビュー記事を読んでいると、極地冒険家で「アースアカデミー大場満郎冒険学校」を主催する大場満郎氏の言葉に衝撃を受けた。

 「それは『なぜ大場さんは冒険をするのですか?』というインタビュアーに対して『人生は一度しかないから、笑って死ねる人生を送りたい。そのために冒険をするんです』と答えていたからです。僕はそれを読んでショックを受けると同時に強く惹かれました。もし、僕が冒険家の道に進まず、なにげない生活を送ったとしたら、後になって、なぜあのときにやりたい道に進まなかったのかと一生後悔すると思ったのです」

 その直後、阿部は山形の大場のもとへ手紙を書いた。その内容は「僕は冒険家を目指しています。そのためにはなんでもしますから働かせてください」というものだ。

 母親とは大喧嘩になったが、家を出るようにして大場のもとへ駆け込んだ。大学には休学届けを提出していた。

 冒険学校では、事務作業や施設の管理、子どもたちの世話などをしながら、冒険のためのトレーニングを積み、知識を学んでいった。

人生最初の冒険は、南米大陸単独自転車縦断への挑戦

 阿部の冒険は「自力(人力)」と「単独」がキーワードである。何が起ころうとも全ては自己責任であるという冒険家としての覚悟の表れだ。

 最初の挑戦は「南米大陸単独自転車縦断」だった。エクアドルの赤道記念碑をスタート地点として、アンデス山脈を南下し世界最南端のアルゼンチンのウシュアイアの道が終わる地点をゴールとした。距離にして約1万キロを300日掛けて走破する計画を立て、290日で達成した。

 途中、道のない高所砂漠地帯で自転車を押しながら延々と登り続けたことや、2千メートルのダウンヒルを一気に駆け下りたこともある。街中では何度か強盗に襲われた。また、こうした長期自転車旅行では食事のとり方や水の補給に苦労することも多い。ここにはとても書き切れないが、まさに命がけの冒険だった。

 阿部はその後、秋田大学に復学し、優秀生徒賞を授与され卒業を迎えた。その後、浅草で人力車を引く仕事に就いた。理由は日本文化を勉強しながらトレーニングにもなり、さらにはお客さんと接することによってコミュニケーション能力が高まると考えられたからだ。日本人はもちろん海外からのお客さんも多く、まったく理解できない言葉で話し掛けられることもあるが、そんな時ほど至福の時間なのだ。

 阿部はこうして資金を稼ぎながら、新たな冒険へとチャレンジしていった。

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