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とうとう強行された「袴田事件」のDNA検証実験 - 小石勝郎

 裁判所が何を考えているのか分からない、との戸惑いは、しばしば耳にするところだ。特に刑事裁判で冤罪を主張する被告側にしてみれば、どう対応すべきか手探りになり、判決や決定が出るまでとても不安な状態に置かれるのが実感だろう。そして多くの場合、検察の主張に立つ結論が導かれる。そうした裁判所の姿勢が、司法への不信を増幅する一因なのだけれど。

 本コラムで何度も取り上げてきた「袴田事件」。1966年に静岡県で起きた一家4人殺害事件である。80年に死刑判決が確定した元プロボクサー袴田巖さん(79歳)は、2014年3月に静岡地方裁判所の再審開始決定を受けて釈放された。しかし、検察が即時抗告したため確定死刑囚の身分のままで、審理は東京高等裁判所(大島隆明裁判長)で続いている。

 その中で、高裁がDNA鑑定手法の検証実験を実施すると決めたことの問題点は、昨年10月の当欄に詳しく書かせてもらった(拙稿「検察提案に則って東京高裁が強行する『袴田事件』の検証実験」)。審理の行方を左右しそうな重要な局面に差しかかっている。

 静岡地裁の再審開始決定を覆すため~袴田さんの死刑判決を維持するため~に検察が求めていた実験であること、しかも、東京高裁は袴田さんの弁護団の猛反発を押し切ってまで検察の提案に沿う方式を採用しようとしていることだけ見ても、検証実験に対する疑念が募る。冒頭に書いたことにも通じるのだが、高裁が何のために実験をやろうとしているのか不明確なことが、不信に輪をかける。

 そして、実験の結果によって、万が一にも再審開始決定が取り消されるようなことがあれば、故郷に戻って姉との静かな暮らしを取り戻しつつある袴田さんが再び収監され、自由を奪われるだけでなく、改めて処刑の恐怖と直面させられるのだ。

 その検証実験。東京高裁は昨年12月に正式に実施の決定をした。年明け早々には鑑定人への委託と尋問が行われ、手続きが本格的に始まった。これらを中心に、袴田事件をめぐる最近の動きを報告する。

 おさらいになるけれど、今回実施される検証実験は「選択的抽出方法」と呼ばれるDNA鑑定の一手法が対象だ。血液だけでなく皮脂や汗、唾液などが混じった可能性のある血痕から、血液に由来するDNAを選り分けて取り出す方法である。

 静岡地裁が実施したDNA鑑定で、袴田さんの弁護団が推薦した法医学者・H氏が採用。その結果、犯行着衣とされてきた「5点の衣類」に付いた血痕のDNA型が袴田さんと一致しないとの結果が出て新証拠の一つと認められ、再審開始決定の拠り所になった。

 決定を不服として即時抗告した検察は、選択的抽出方法について「H氏独自の手法で有効性はなく、鑑定結果は信用できない」「(検察の依頼した学者が)独自に実験をしたところ、血液由来のDNAを選択的に抽出する効果はなかった」と主張し、第三者による検証実験をするよう高裁に要請していた。弁護団は強く反対したが、裁判所が実施を決めた。このため弁護団は鑑定人の推薦を拒否し、検察が推薦した学者だけで強行される異例の実験となるのだ。

 上記拙稿では、昨年10月15日に開かれた高裁、検察、弁護団による三者協議で、高裁が検証実験の実施を口頭で通告したところまで触れた。この後の動きを追う。

 東京高裁が検証実験の決定を正式に書面で通知したのは、12月7日だった。主文では「別紙の鑑定事項について鑑定を行う」とし、関西の大学教授(法医学者)のS氏を鑑定人に選任することと、鑑定人尋問の日程を定めた。

 「別紙」には鑑定事項として、選択的抽出方法が「血液由来のDNA型を判定することに有用であるか」と記されている。試料として、①新鮮な血液と別人の新しい唾液を混ぜたもの、②血痕が付着して10年以上が経過したガーゼ、③②のガーゼの血痕に別人の新しい唾液を付けたもの、の3種類を用意し、それぞれ選択的抽出方法で血液のDNA型を検出できるかどうか調べる、としている。

 袴田さんの弁護団は、③の試料を検証実験に使うことを特に問題視してきた。DNAは時間が経つにつれて数が減ったり壊れたりするためだ。古い血液と新しい唾液を混ぜれば唾液のDNAが検出される可能性が著しく高くなるとして、「誘導的実験だ」と反発してきた。検察は混ぜる唾液の量を少なくする方式を提案し、裁判所も採用する方針だが、弁護団は「どのくらい唾液の量を減らせば正しい割合になるかは科学的に未知の領域だ」と反論している。

 実施決定を受け、弁護団は12月25日、決定を取り消すよう求めて高裁に異議を申し立てた。異議申立書には、③の試料を使う実験の違法性を縷々つづった。

 検証実験に対して「5点の衣類に付いた血痕の状態とは完全に異なる架空の条件を設定したもの」「5点の衣類に(唾液などの)新しい生体試料が付着したと想定する根拠は全く存在しない」「世界中の科学者が誰も行ったことのない実験で、正しい判断を下せるわけがない」などと問題点を列挙したうえで、「不必要かつ有害」「審理を遅延させ混乱させる」「(選択的抽出方法を)失敗させるための実験」と激しい言葉で批判を連ねている。

 A4判11枚の異議申立書に対し、東京高裁は同じ日に、わずか数時間で決定を下した。棄却である。しかも、決定書には「主文 本件異議申立てを棄却する」とあるだけで、理由は何も記されていない。それが裁判所の「常識」なのかもしれないけれど、人の命を左右しかねない実験、しかも一方の当事者が強く反対しているのだから、一般の常識から見ると、同じ結論になるにしたってもっと丁寧な対応が必要ではないのだろうか。

 で、鑑定人尋問(非公開)は予定通り、年明けの1月7日に実施された。

 終了後に記者会見した弁護団によると、尋問では弁護団が、鑑定事項にある「有用」の意味や③の試料に混ぜる新しい唾液の量について、確認する質問をしたくらいだった。唾液の混ぜ方では、鑑定人のS氏は「DNAの濃度を調整しながら試行錯誤してやる」と答えたそうだ。検察は質問をしなかったという。

 今後、高裁がS氏とやり取りしながら、具体的な検証実験の方法を固めていく。そのため、検証実験がいつ始められるのか、また、いつごろ結果が出るかは、まだ見通せないらしい。

 弁護団は検証実験への協力を拒否しているが、昨年末の異議申立てと同時に実験への意見書を提出している。実験方法については、よほどのことがない限り異議の対象になり得ないとみており、当面は実験から距離を置く形で静観し、「結果や手続きに対して意見を述べていく」方針だ。

 検証実験には半年近くかかるとみられており、結果が出るのは今年の夏ごろになるかもしれない。そのうえで結果の評価をめぐって激しい論争が予想されるから、高裁審理の長期化は必至の情勢になっている。DNA鑑定以外の争点や証拠の審理をどう進めていくのか。捜査段階での取り調べの様子を録音したテープという新たな証拠も開示されており、高裁はある程度の道筋を示して弁護団に意見を求めるべきだろう。

 さて、最近の袴田さんの様子である。

 姉の秀子さん(82歳)や支援者によると、自宅のある浜松市内を歩いて回るのが日課になっている。正午前後から出かけ、日が暮れるころまで帰ってこない。本人は「浜松のまちを守っている」と語り、市外への遠出は拒んでいるという。外でパンや菓子を買って食べたり、時には喫茶店やラーメン店に寄ったりもしているらしい。昨秋にはかつての勤務先まで1人で向かおうとして、往復約20キロ(推定)を歩いて午後10時に帰宅したこともあった。

 一時はまっていた将棋を指すことはなくなったが、新聞に目を通すようになった。ここ3カ月ほどは米飯の代わりにカップ麺を食べるので、秀子さんが栄養管理をしている。体調は良いが、長期間の身柄拘束による拘禁反応が原因の「トンチンカンな会話」は相変わらずだ。

 「拘置所にいたら徘徊もできないから、まあいいやと思っています。精神的な面の回復は2年では無理です」と秀子さん。「1日も早く再審開始になることを願います」と語る一方で、「釈放まで48年も待ったのだから」と、審理に多少の時間がかかることにはこだわらない姿勢も見せている。

 そんな袴田さん姉弟の暮らしを描いたドキュメンタリー映画『夢の間の世の中』が完成し、2月27日に一般公開される。「ありのままを見てほしい」という秀子さんの希望を受け、袴田さんが釈放されてから1年半の日々を映像に収めた。

 金聖雄監督は「日常の中のディテールを丁寧に描いた。袴田さんに『表情』が出てきた一方で、僕らには受けとめられない深い闇があることも見えてくる。袴田さんの存在自体がメッセージ。事件のことを知らなくても、袴田さんと秀子さんの2人が生きてきた軌跡に思いを寄せ、想像力をもっていろいろ考えてほしい」と話す。

 ちなみに、袴田さんも今年初めに最後まで観賞し、「こんな映画はウソなんだ。仕組まれたことで、あんな風にヨボヨボに描いて袴田巖を殺そうとしている」と感想を話しながら、どこか朗らかな様子だったそうだ。

 再審請求の審理にあたる裁判官や、請求棄却を求め続ける検察官にも ぜひ見てほしい。

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