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全力疾走で名をあげた球界一の「特殊球歴」の持ち主 生山裕人(千葉ロッテマリーンズ) 

高森勇旗 (元プロ野球選手)

画像を見る 生山裕人( Hiroto Ikuyama)
千葉ロッテマリーンズ
1985年大阪市生まれ。進学校である大阪府立天王寺高校卒業後、1浪して近畿大学文芸学部芸術学科演劇芸能専攻演技コースに進学。二部の準硬式野球部、八尾ベースボールクラブを経て、21歳のときに独立リーグの四国アイランドリーグのテストに合格。大学を休学して香川オリーブガイナーズへ入団。2年の在籍期間を経て、2008年の育成ドラフト4巡目指名で千葉ロッテマリーンズへ入団。4年間在籍したが、支配下登録されることはなく、12年のシーズン終了後に戦力外通告をうける。ウェディングプランナーを経て独立。

 この男のように特殊な経歴でプロ野球選手になった者は、未だかつていただろうか。

 話は大阪府内随一の進学校である天王寺高校時代にまで遡る。野球の練習は、2日に1回、16時から18時の2時間。グラウンドは、サッカー部とフィールドホッケー部との共用で、週2回の朝練でしかバッティング練習はできず、目標は甲子園出場であったが、それは名ばかりの目標であった。

 教師を目指し、大阪教育大学を受けるも、不合格。浪人し、再受験を目指すも、「全く勉強しなかったんだから、そりゃ、受かるわけない」と本人が語る通り不合格。もう一つの夢であった芸人の道を視野に入れ、近畿大学文芸学部芸術学科演劇芸能専攻演技コースに進学した。早い話、役者などの舞台関係の職に就くコースだ。

 もう一度野球をやりたい気持ちだけは残っていたが、講義時間の関係で、硬式野球部にも、準硬式野球部にも入れなかった。二部の準硬式野球部にかろうじて入部できたが、練習は月水金の18時から22時のみという、大学の体育会としては考えられないスケジュール。フリーバッティングの練習もできない劣悪な環境だった。しかし、この期間になぜか生山の野球への思いは最高潮に達する。

野球に対してスイッチが入った生山の行動は常軌を逸していた。野球本を買いあさり、演劇の講義中は筋トレ、座学では野球の本を読み、食べるものや、寝ることに関しても、すべて「野球が上手くなるかどうか」が基準になっていった。友達に食事に誘われようが、寝る間も惜しんでバッティングセンターで練習に励んだ。

 空いている土日を利用しようと、発足直後の社会人野球のクラブチームに1期生として参加。二部の準硬式野球部と掛け持ちで活動することになったが、試合日程が重なるなど支障をきたしたため、クラブチームに活動を一本化する。だが、今度は平日の練習がなくなったため、母校・天王寺高校の野球部で練習することにした。そして、とどまるところを知らない野球への思いが、独立リーグの四国アイランドリーグ受験を決意させた。

 「当時21歳。やりたいことはたくさんあったが、プロ野球を目指せるのは今しかないと思った」

 周囲の反対をものともせず、生山は挑戦した。迎えたトライアウト当日。50メートル走で斜めに走ったにもかかわらず5秒9というタイムを叩き出し、1次試験に合格。その後のテストもパスし、なんと香川オリーブガイナーズへの入団を勝ち取る。生山は大学を2年で休学することにした。

 1年目。3月のオープン戦初戦に代走で出場したが、緊張のあまり帰塁の際に右肘じん帯を部分断裂。1カ月単位でクビになる独立リーグにおいて、ケガは命取り。ひた隠しにしながらのプレーが続いたが、夏にレギュラーを獲得すると、そのまま定着。オフの契約更改では、月額10万円の給料から、3万円のベースアップを勝ち取ったが、この場で「プロ野球の球団がお前のことをチェックしている」と告げられた。生山は、22歳にして初めて、「プロ野球」という夢を持った。

 「目立つにはどうしたら良いか。人と違うことをどうやって作り出すか。そればっかり考えていた」

 足だけは異様に速かった生山は、攻守交替の際、守備位置まで全力で走った。この全力疾走は、ファンの間でも名物となり、プロ野球のスカウトの目にもとまった。オフに肘を手術し、2年目のシーズンは成績を大きく落としたが、生山は千葉ロッテマリーンズから育成選手として指名を受ける。

 「実力や成績から考えると、ありえない。でも、いかに人と違うことをやって目立つかを追求してきた。それで、スカウトの心を動かせたんだと思う」

 生山を待っていたのは、厳しいプロの現実だった。毎日結果を出すことを求められ、ファンや地元の仲間たちからの期待を背負い、プレッシャーにさらされる日々へと変わった。あれだけ好きだった野球は、いつしか辛いものへと変わってしまった。顔中に吹き出ものがあらわれ、寮からも一歩も出ず、塞ぎ込んでしまう。ひたすらストレスと向き合いながら、1年目を終えた。必死に練習し、着々と力をつけ、4年目の2012年には2軍で87試合に出場するまでになったが、同年10月7日、戦力外通告を受ける。

「こんなに幸せな野球人生はない。最後はプロ野球の球団にクビと言ってもらえたんやから」

 プロ野球で得た一番の財産は、「超一流の考えに触れることができたこと」だという。異例すぎる経歴でプロ野球の世界に入った生山にとって、毎日が非日常であり、クビになったことも含めて、本人の言う通り幸せな野球人生だったのだろう。

 野球を辞めた生山は、ロッテの大塚明コーチの紹介で、「人を幸せにすることが好きだから、向いていると思った」というウェディングプランナーの職を選ぶ。しかし、生山は一度も結婚式に出席したことがなかった。電話の応対、式場の情報のインプット、接客など、朝から晩まで狭い空間でパソコンを操作する日々は、つい数カ月前まで青空の下を全力で駆け回る生活を送っていた生山にとって、この上ない苦痛だった。

 やはり自分には体を動かすことが向いている。辞めようと思ったことは一度や二度ではない。何度も退職を切り出したが、その度に同僚に引きとめられた。もがきながらではあったが、1年が経つ頃には仕事にも慣れ、立派なプランナーへと成長した。

 「1年が経ち、野球ばかりしてきた自分の人生からのリハビリが終わった。次は、いろんな人と会うことに注力した」

 遅くまで続く仕事を続けながら、寝る間も惜しんで人と会った。様々な人間と会う中で、世の中にある多種多様な仕事を知り、自分の本当にやりたいことを見出していく。

 「生山に会った人がみんな幸せになるような、そんな人間になりたい」

 15年いっぱいで、生山は3年間勤めた会社を退社する。普通では手に入らないような経験をしてきたからこそ伝えられることがあると思い、独立を決意。今後は、スポーツ心理学を一から勉強し、野球界やスポーツ界の発展に貢献するという。

 「どんな仕事をしようとも、これからも全力疾走。本気で生きることから、ブレることはない」

 生山の人生にとっては、プロ野球選手でさえ、一つの特殊な経歴に過ぎないのかもしれない。(敬称略)

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