- 2016年01月13日 10:03
陸上選手として直面した世界の壁 転向で第二の競技人生歩む ゴールボール日本代表 天摩由貴さん - 大元よしき
1/2『ゴールボール』一般にはあまり馴染みのない競技かもしれない。しかし、2012年のロンドン・パラリンピックで「日本パラリンピック史上初めてチームスポーツで金メダルを獲得!」と記せば、この競技への興味や見方が変わるだろう。
大よそチームで行う競技というのは体格に恵まれ、スピードとパワーに勝る国々にアドバンテージがあることが多い。ゴールボールも例外ではない。スピードとパワーは得点力に繋がり、身長の高さは守備力に大きく影響する。こうした点だけを比べれば日本人には不利な競技だと言わざるを得ない。
画像を見るゴールボール選手の天摩由貴さん
チームスポーツの中ではよく日本人としての強みに「俊敏性」や「チームワーク(組織力)」、競技によっては「運動量」などが挙げられる(筆者はそこに創造力」も加えている)。
これは国土も資源も少ない我が国が、世界に冠たる経済大国に成長を遂げた背景にある、知力と勤勉さと和を尊ぶ国民性に通じるものがあると考えられる。
まったくの私見だが、身体的な不利を抱えながらもロンドンで成し遂げた快挙は、こうした日本人的な特性を最大限に活かした結果だと想像している。
研ぎ澄まされた感覚、静寂の中でのせめぎ合い、どちらも日本人に向いているのかもしれない。
そのゴールボールは、第二次世界大戦で視覚に傷害を受けた傷痍軍人のリハビリテーションの効果を促進するために考案されたもので、1946年にオーストリアのハインツ・ローレンツェン、ドイツのセット・ラインドルの両氏によって競技として紹介されたのが始まりとされている(日本ゴールボール協会のHPより)。
視覚障害者のための競技で、ルールは中に鈴の入ったボールを3人の選手が転がすように投げ合い、得点を競う競技である。コート上の選手は「アイシェード」と呼ばれる目隠しを着用し、完全に見えない状態になっているため、聴覚のみならず全ての感覚を研ぎ澄まさなければならない。
ボールの重さは1.25kg、バスケットボールほどの大きさで表面はかなり固い。そのため、ユニフォームの下にプロテクターを装着して試合に臨む。
コートの広さは18m×9m。その9mの幅全体に広がるゴールを、選手たちは全身を投げ出し、身を挺して守るのである。
静かな体育館に響く「キュキュ!」という選手のシューズ音が、選手たちの緊張をリアルに伝えてくるようだ。
「2位では面白くない」と本格的に陸上競技に転向
画像を見るゴールボールに励む天摩選手(手前)
天摩由貴 青森県生まれ。
無類の負けず嫌いで小さい頃から「私もやりたい、やりたい!」と姉や友人と同じことをやろうとする子だった。そんな天摩を両親は「やりたいと思う事はやってみなさい」と応援してくれた。もちろん生まれつき視覚に障害を持った天摩に心配がなかったわけではないが、それでも背中を押してくれた。
得意な科目は数学(算数)だが、好きな科目は体育だった。小さい頃から体を動かすことが大好きだった。
しかし、青森県の盲学校では1学年の在籍者は3~4名。ひとりもいない学年があったほど生徒数が少なかったため、「○○部」というような部活動ができる環境ではなかった。月ごとにフロアバレーボールやグランドソフトボールなどを行って、みんなで楽しむというのが中学時代までのスポーツ環境だった。
「私は中学まで八戸市(青森県)の盲学校に通って、卒業後、東京の筑波大学附属の盲学校(特別支援学校)に進学しました。入学してすぐにフロアバレーボール部に入ったのですが、約半年経った頃から陸上部の練習に参加するようになりました。その理由は、フロアバレーボールは地域ごとにルールが違って、全国大会がないと聞いたからです。好きなスポーツでも上の大会に出られないのはつまらないですからね。2つ目の理由は、1年の秋に全国障害者スポーツ大会に60m音競争で出場したのですが、2位でとても悔しい思いをしました。負けず嫌いなんですよね、それ以来陸上部の練習に参加するようになりました」
筑波大学附属視覚特別支援学校(以下、附属盲学校)の3年間は寮生活だった。高校生で親元を離れ寮生活を送ることに父親は反対したが、母親は「どう頑張っても親の方が先に死んでしまうんだから、早めに自立させたい」と、むしろ中学生の時から上京させたかったようだ。
部活動どっぷりの日々
本格的に陸上部に入部したのは、高校2年生からだ。以後、高校生活は部活動が一番の楽しみで、部活動を行うために通うようになったと言っても過言ではないような生活に変わった。
視覚障害者の陸上競技種目は、トラック種目が100m 200m 400m 800m 1500m 5000m 10000m。フィールド種目は走り高跳び、走り幅跳び、3段跳び、円盤投げ、砲丸投げ。そしてマラソンである。
「その中で私は100mと200mをメインに、400nにも出場したことがあります。高校時代の部活動では、『時間を守ること』や『ルールを守ること』、集団で生活や行動をするために必要なことなど、社会に出て必要とされることは、部活動や寮生活を通して学んでいきました」
また当時の天摩には「私が!私が!」という自分中心的なところがあった。その考え方や態度によく注意を受けた。「厳しいこともありましたが、社会に出て生きて行く上で必要なことばかり」と顧問の原田先生への感謝を忘れたことはない。
高校卒業後、天摩は日本大学の文理学部数学科に進学した。高校時代は体育の教員になりたいと思っていたが、視覚障害のため体育は断念して、「得意な数学で進学しよう」と数学科を選択。陸上競技を続ける意思も固めていた。ちょうどその頃、後に天摩と共に世界を目指す伴走者に出会う。同校の卒業生であり教員の近藤克之である。
「いまの私はパラリンピックに行けるレベルではありませんが、ロンドン・パラリンピックに出たいんです!」という気持ちを伝えたところ「よし、それなら伴走しよう」と近藤は即座に応えれくれた。
「陸上競技を続けたいと思っていたのですが当時の私の実力では日大の陸上競技部に入ることはできませんので、近藤先生と二人で練習していました。練習は週に5回です。平日は朝か先生の仕事が終わったあと1時間~2時間程、休日は朝から3時間程度練習していました」
部活動のレベルから世界へ挑戦
2009年当時、天摩にとってロンドン・パラリンピックは夢に近いものだったが、近藤と天摩はロンドンに出場するための目標として、2012年から逆算して具体的な目標を細かく立てていった。まずは2010年に広州(中国)で開催されるアジアパラを照準に、練習内容やそれぞれの時点で達成しなければならない目標を話し合いながら具体化したのである。そして当面の目標だった2010年の広州アジアパラでは、200m走で金メダルを獲得し、100m走でも4位入賞を果たした。
その日の陸上競技場は約3万人の観衆が詰め掛け、湧き上がる歓声は日本では味わえないものだった。
決勝には4人が残り、天摩以外は中国人選手だった。
近藤からは、いつも「試合は練習のように、練習は試合のように」と指導されてきたが……。
「私以外は中国人選手でしたし、アウェー感が強かったこともあり、とても緊張しました。この大会に限らず、私はどの大会でも緊張をなかなか上手くコントロールすることができなかったのです。『どうしてこんなに固くなってしまうんだろう』といつも思っていました。ですが、広州のアジアパラで金メダルを取ったことが自信となり、国内大会では必要以上に緊張しなくなりましたし、緊張をコントロールすることも覚えていきました」
「大学に入学してから2年近く記録が伸びず、苦しい時期が続きましたが、アジアパラで自己ベストが出て、それが日本記録にもなって嬉しかったですね。自分の力を出し切れた感が強かったから、より嬉しく感じたのかもしれません」
その2年後、師弟ふたりの目標だった2012年のロンドン・パラリンピックに出場を果たした。夢は努力次第で現実になることを天摩は示したのである。陸上競技の会場には、なんと8万人の大観衆が! 過去に体験したことのない異次元の熱気にあふれていた。
「上手く言えないのですが、競技場の異様な雰囲気を全身で感じました。あのときは近藤先生の方が見えているだけに緊張されていたと思います」と初めてのパラリンピックは、想像を超えた規模感だったと振り返る。
- WEDGE Infinity
- 月刊誌「Wedge」のウェブ版



