記事

18歳選挙権導入を前に考える――東アジアの市民教育とナショナリズム - 阿古智子(現代中国研究)

2/2

映画ワークショップの展開

本研究では当初、各研究者がそれぞれテーマを設定して研究を進めるだけでなく、合同でアンケート調査や授業観察を行う準備も進めていた。どのような切り口で、どのような学生を対象に行うのか、私たちは何度も話し合い、学校と交渉し、試験的に実地調査を行った。

しかし近年、特に中国大陸において政治的引き締めが強化されていることもあり、学校に入り込んでの授業観察や継続的なインタビュー調査は、なかなか実現の見通しが立たなかった。私たちは試行錯誤と議論を重ね、最終的に、法学教育を通じてアイデンティティとナショナリズムの問題に接近することを思いついた。

法学教育といっても、テーマが大きすぎる。ならば、一つの映画を通して学生の法意識を探ろうということになり、痴漢冤罪事件を題材に刑事司法のあり方に疑問を投げかけた映画「それでもボクはやっていない」を使い、映画ワークショップを行うことになった。

大学生(一部、大学院生も含む)に、教員のファシリテーションに従って映画について議論してもらい、その様子をビデオと録音テープに収めた。

どのような学生が参加しているのかを把握するため、学生には自分の家庭環境や学歴、法や政治参加に対する考え方について、簡単なアンケート調査に回答してもらった。また、同じ儒教文化圏のコンテクストで比較を行うという考えもあり、日本の山梨大学でもワークショップを行った。全部で、中国大陸で76人、台湾で80人、香港で51人、日本で39人の学生が参加した。

1月10日の公開シンポジウムでは、この映画ワークショップを通して見出したことを、中国、台湾、香港、日本の研究者、教育者、学生がそれぞれ報告する。私たちは本シンポジウムも研究の一環と捉えている。それは、成果を社会に還元するという意味もあるが、私たちの研究に対する意見やアドバイスを、市民の皆さんからいただきたいという思いからである。ぜひ、この文章を読まれた方々にも、ご参加いただければ幸いである。

国境を越えた市民社会を展望

痴漢の容疑で逮捕された映画の主人公・金子徹平のように、あたりまえのように享受していた自由が、ある日突然、奪われることがあるかもしれない。金子は、警察や司法と自分が直接関わることなど、夢にも思っていなかっただろう。

金子の直面した問題は、誰にでも起こり得ることだ。国家は、常に国民を守る存在であるとは限らない。時に権力が適切に制御されず、国民の権利を侵してしまうこともある。そしてそれは、自分の国だけの問題ではない。グローバル化が進み、移動やコミュニケーションが海を越えるようになった今、海外で、自分が、あるいは友人が、警察や司法機関に不当に扱われるということも、そう珍しくなくなっている。

宗教や文化的背景、政治システムの異なる国々や地域の間で、立法に対する考え方や、法の執行・遵守を広めるための手法に、差異が生じることは少なくない。しかし、法律によって人間の権利を守り、人間の義務を規定することは全世界に共通する普遍的な課題であり、さらに、国を越えた人権保障のメカニズムの構築なくして平和を実現することは不可能だ。国家権力の濫用を阻止し、少数者の権利を守るために、民主主義は立憲主義との緊張関係の下に追求されるべきであろう。

本研究が始まる前の年の2012年、中国では、領土問題に端を発する反日デモにさまざまな年齢・社会階層の人々が参加した。自主的に参加した人も、動員に応じて参加した人もいると見られるが、いずれにしても、私たちは中国の人々のアイデンティティとナショナリズムの在り様を的確にとらえることが、いわゆる「チャイナリスク」を軽減し、将来に向けて友好的な日中関係を構築することにつながると考えた。また、香港や台湾の華人を研究対象に含めることで、政治体制や社会構造がアイデンティティの形成に与える影響を浮かび上がらせることを目指した。

こうした作業を通じて見出した「中国」をめぐるアイデンティティとナショナリズムに関わる概念や要素は、外交、教育、国際交流などにおける政策の立案や評価に活用できるかもしれない。より開かれた国際関係と市民教育を展望するための、政策インプリケーションを導くことが可能になるかもしれない。

本研究のメンバーの一部は昨年11月、ドイツ視察の機会を得、高校や大学を訪れた。そこでは、「暗記型」ではなく、「考え、議論する」教育が幅広く行われていた。また、障碍の有無や宗教、民族の差異に関わらず、誰もが地域の学校で学べるように工夫されたインクルーシブ教育の実践にも触れることができた。かつて民主主義から独裁者を生み出したことへの深い反省から、ドイツは戦後、教育改革に力を入れ、学生の政治的判断力を育てる教育を推進してきた。

日本では今夏、選挙権年齢が18歳に引き下げられるのに伴い、高校生に主権者教育をどう行うか、教師の「中立性」をどう保障するかといった問題について、議論が活発化している。

ドイツでは1972年に選挙権年齢が18歳に引き下げられ、1976年に政治的中立を保った政治教育の実現に向けて、

(1)教師の意見が生徒の判断を圧倒してはならない

(2)政治的論争のある話題は論争のあるものとして扱う

(3)学生の自分の関心・利害に基づいた政治参加能力を獲得させる

という「政治教育三原則」(ボイステルバッハ・コンセンサス)が導入された(http://news.yahoo.co.jp/feature/61)。

知識偏重の傾向が強い東アジアの教育において、ドイツのような国の経験は非常に参考になる。学生が身近な問題を通して、当事者意識を持ちながら司法や政治について考え、自分の関心に応じて政治に参加できるように、また、偏狭な国益意識や排外的なナショナリズムに縛られず、国境を越えた市民社会の形成を展望できるように、教育を改革することが重要であろう。その歩みを一歩進められるよう、本研究が基礎的な成果を示すことができればと考えている。

市民公開・国際シンポジウム

「映画『それでもボクはやっていない』海をわたる!〜東アジアの法教育と大学生の法意識」

【日時】2016年1月10日(日)13:00~17:45

【場所】東京大学駒場キャンパス 18 号館ホール

入場無料 日中同時通訳付き


リンク先を見る

貧者を喰らう国: 中国格差社会からの警告【増補新版】 (新潮選書)
著者/訳者:阿古 智子
出版社:新潮社( 2014-09-26 )
定価:¥ 1,404
Amazon価格:¥ 1,404
単行本 ( 255 ページ )
ISBN-10 : 4106037572
ISBN-13 : 9784106037573

画像を見る
阿古智子(あこ・ともこ)
現代中国社会

専門は現代中国社会の政治・社会変動。農村の社会関係資本、農村から都市へ向かう出稼ぎ労働者、土地・戸籍制度、知識人や市民社会の動向などを研究している。主著に『貧者を喰らう国−中国格差社会からの警告』(新潮選書、2014年;2009年、新潮社)「高まる社会的緊張」(川島真編著『シリーズ日本の安全保障・第5巻:チャイナリスク』岩波書店、2015年)「文明の衝突としての米中関係-中国人のアイデンティティの変容」(畠山圭一編著『中国の安全保障とアメリカ』晃陽書房、2010年)など多数

あわせて読みたい

「法律」の記事一覧へ

トピックス

  1. 一覧を見る

ランキング

  1. 1

    BLOGOSサービス終了のお知らせ

    BLOGOS編集部

    03月31日 16:00

  2. 2

    なぜ日本からは韓国の姿が理解しにくいのか 識者が語る日韓関係の行方

    島村優

    03月31日 15:41

  3. 3

    「いまの正義」だけが語られるネット社会とウェブ言論の未来

    御田寺圭

    03月31日 10:09

  4. 4

    カーオーディオの文化史 〜ドライブミュージックを支えた、技術の結晶たち〜

    速水健朗

    03月30日 16:30

  5. 5

    BLOGOS執筆を通じて垣間見たリーマンショック後10年の企業経営

    大関暁夫

    03月31日 08:27

ログイン

ログインするアカウントをお選びください。
以下のいずれかのアカウントでBLOGOSにログインすることができます。

コメントを書き込むには FacebookID、TwitterID のいずれかで認証を行う必要があります。

※livedoorIDでログインした場合、ご利用できるのはフォロー機能、マイページ機能、支持するボタンのみとなります。