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- 2015年12月16日 22:37
模擬葬式で自分の死を思うこと
これまでも何度か「死」について言及してきたことがありますが(小さい子の死と生きてきた証)、『新華ニュース』が配信していた「韓国 模擬葬式が流行 サラリーマンの自殺を防ぐ」という記事がいろいろ興味深かったので、これについて少し。
1 記事の紹介
英メディアの翻訳記事で、自殺率の高い韓国で、「従業員に命の大切さを実感させようと、一部の韓国企業は従業員が参加して模擬葬式を行い、従業員らに死を体験させた」というものです。具体的には、「参加した従業員らは棺おけの中に横たわり、じっと天井を見つめ」「周りの照明が次第に暗くなり、帽子を被った黒い服の“死亡の天使”を務める人が棺おけの蓋を」します。
「真っ暗になった後、従業員らは人生の意義を考え直す。死の体験は10分間にわたる」というものです。
2 死の体験
こうした試み(方法)が良いことかどうかは何とも言えませんが、私的には大変興味深い試みだと思ったというのが本音です。人は必ずいつか死にます。兼好法師ほどの方であれば、確かに常々からそうしたことを考えて、自分の生き方を反省し、よりよく生きていくことも可能かもしれませんが、私ごときものにはなかなか難しいところです。
死はそこで強制的に自分が今やってきたこと、これからやろうと思っていたことを直ちに終了させてしまいます(当たり前だけど死んだらお仕舞い)。
そのため、本来であれば、その準備をしておいた方が良いわけですが、それは自分の死を現実のものとして考えなくてはならないことになるので、かなりきついものがあります。
3 死の認識
普段はなるたけ死を考えないようにして(忘れたふりをして)生活しているわけですが、下手にもうすぐ死ぬかもしれないなどと考えるようになれば、何をやっても同じだという発想にもなりかねません。結果、未来に対する希望などは考えられないわけで、将来を悲観するうつ的傾向がでてくるということにもなりかねません。
そのため、普段はなるたけ死に目をつむり考えないようにしているわけですが、テレビのニュースなどで死亡事故などが報道されるとどうしても意識に入ってきます。
4 わが身
「同情」と言い換えても構わないのでしょうが、他人のことをどれだけ自分のこととして考えるという話です。自分と関係のない遠くのところで誰が死のうがあまり自分には関係ありませんし、実際常に多くの人が亡くなっているわけで、そんな遠くの人のことまで心配していたのでは、いくら心配しても足りません。
ただ、東日本大震災やフランスの同時テロなど、多くの方が犠牲になり、理不尽に急に人生を終えなくてはならない方がたくさんいたとき、それが自分だったら(自分に親しい人だったら)と想像力が働くことになるのでしょう(フランスのテロを自分の問題として捉えること)。
それはすごく大事なことでしょうし、そんな時だけと言われようが、偽善と馬鹿にされようが、しないよりははるかに良いことだと思います。
5 最後に
死を考えることによって、今自分がやってきたこと(やろうとしていること)が全て無くなってしまう恐怖を思い、そしてそれを悲しんでくれる人の存在など、結果として自分の命の大切さを考えるようになるのではないでしょうか。そして、結果、他人の命も同じ価値があることに気づき、殺人という行為が如何にひどい行為であるか気づくようになるのではないかと思います。
死ぬことは怖いわけですが、そのため、その逃げ道に宗教を用いることが良くあります。ただ、それが悪用されて、結果自爆テロの様な行動にでる方が生まれることは本末転倒でないかとも考えております。