「東京高検が上告へ 菊地元信者無罪「高裁判決は国民感覚からも乖離」」(産経新聞2015年12月9日)この事件で上告理由があるのかどうか疑問でしたが、それでも検察は上告するそうです。
その理由が滑稽です。「高裁判決は国民感覚からの乖離」だそうです。
有罪・無罪を「国民感覚」で判断するという発想自体、滑稽なのですが、考えてみれば非常に恐怖を感じるものです。
「お前は知っていたはずだ」で有罪としてしまっていいというのですから、これでは被告人の弁明はすべて「いいわけ」、全く聞く耳も持たれないということになります。
検察がその上告理由の根拠に持ち出したのが、この最高裁判決です。
「最高裁は24年、2審で逆転有罪判決を受けた覚醒剤密輸事件の被告の上告審判決で、1審裁判員裁判の無罪判決を支持、「明らかに不合理でなければ、裁判員の判断を尊重すべきだ」との初判断を示していた。」(前掲産経新聞)これは覚醒剤密輸事件ですが、結構、乱暴な判断でした。
「最高裁 逆転「無罪」判決の問題点」
その後、覚醒剤密輸事件では裁判員裁判で少なくない無罪判決が出されましたが、これに危機感を抱いた検察によって、その後も控訴がなされ、いつしか高裁では逆転有罪となり、最高裁もその判断を是認するに至っています。
覚醒剤密輸事件では、はっきり白という事件は少なく、どこか「怪しい」事件であり、しかし、被告人が否認しているためにその認識という目に見えない内心について認定していくものです。
検察官は、裁判員裁判の結果を尊重すべきだという判例を持ち出していますが、ならば何故、覚醒剤密輸事件で裁判員裁判による無罪判決に対して控訴をするのか説明がつきません。極めてご都合主義的な理由です。
この点はマスコミも同様です。その後の覚醒剤密輸事件に対する逆転有罪判決にも黙りです。
そして何よりも上記最高裁判決は、被告人に有利な判決の「尊重」でした。刑事裁判では、疑わしきは罰せずという大原則があります。
今回は、被告人を無罪にした高裁判決を「裁判員裁判の尊重」というだけの理由で破棄、有罪にできるのかということです。
先の最高裁判決も問題はありつつも、次のような論法で裁判員裁判の無罪判決を維持したのです。
「必ずしも説明のつかない事実であるとはいえない。」
「およそ不自然不合理であるということはできない。」
「その旨を指摘して上記弁解は排斥できないとした第1審判決のような評価も可能である。」
「その旨の第1審判決の判断に不合理な点があるとはいえない。」
「その旨の第1審判決の判断に不合理な点があるとはいえない。」(繰り返し)
「偽造旅券の密輸を依頼されていた旨の被告人の弁解とも両立し得るものである。」
「その旨の第1審判決の判示が不合理であるとはいえない。」
という論法で無罪判決を維持したのですが、無罪判決であれば、この程度の評価で無罪ということもあり得ますが(但し、少々、乱暴です)、しかし、東京高裁の無罪判決を破棄するということは、この逆、「不合理であるとはいえない」という程度の認定で有罪にできるのかということが問われるわけです。
検察官の立証は合理的な疑いを入れない程度に立証しなければならないとされています。
それが、「不合理であるとはいえない」という程度の立証でよいということにはなり得ないということです。
検察の上告は、メンツだけしか見えてこず、見苦しい限りですが、どうしてここまで無罪判決が受け入れられないのか異様です。これが検察の体質だとすれば、非常に恐ろしいことです。
検察の上告は不当と言わざるを得ません。