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- 2015年10月30日 17:00
南シナ海の「現状」はすでに変更されている ~プロスペクト理論から~
以前、プロスペクト理論について紹介しました。
(2014/11/14)プロスペクト理論:現状維持の「現状」ってどこ?
抽象的な説明で分かりにくいところもあったと思います。そこで、米海軍が南シナ海において「航行の自由作戦(Freedom Of Navigation OPeration:FONOP)」を実施したこの機会に、南シナ海問題という具体的な事例を当てはめてみると、より分かりやすいかな、ということで改稿・加筆してみました。
現状=参照基準点は刻々と変化します。意思決定者の現状に関する主観的な理解(獲得/損失どちらのドメインにいるのか)だけでなく、欲求や期待水準によっても規定されるからです。しかも、人や国家は以下のようなやっかいな傾向があります。
奪い合ったモノの所有者が入れ替わっても、しばらくは獲得者と損失者双方が同じものを「自分のモノ」だと思い込む状態が続くわけですね。
南シナ海に戻って考えると、米国がここ数年南シナ海における中国の行いを放置してきたために、中国の参照基準点はすでに変更されていることでしょう。すなわち、中国にとっての南シナ海の問題は、「獲得のドメイン」から「損失のドメイン」へと移っているはずです。
中国は南シナ海を歴史的に中国に属している “戦略的辺疆” だと考えており*1、奪ったのではなく取り戻したのだと認識しています。したがって、昨今の南シナ海進駐は中国にとって原状回復行動だったことになります。
南シナ海のシナリオでは、中国だけでなく米、ベトナム、フィリピンなども “現状” 維持を図っており、海域の支配や島・岩礁のコントロールに対して各々が損失のドメインで意思決定をしています。各係争国が現状維持バイアスに引っ張られた結果、高いリスクを受け入れてより大きなギャンブルをすることになる危険性もあります*2。
ところが、ここでも問題になるのが参照基準点です。彼我の現状=参照基準点を見誤れば、抑止政策でさえも相手には強制とみなされ、難しいものとなってしまう危険性があります。すでに損失のドメインにあると認識している中国にとって、南シナ海での行動を押しとどめようとする米国の行動は抑止ではなく強制であると捉えているかもしれません。少なくとも中国にとって人工島12海里内でのFONOPを受け入れざるを得なかったこと、加えて米イージス艦(後詰めの空母がいますが)1隻でさえも接近阻止・領域拒否できなかったことは事実です。これは、中国の『領海法』(1992)が定めている「他国軍艦は無害通航であっても事前申請が必要」という国内法*4を否定されたことになり、抑止ではなく強制外交であると受け止めていても不思議ではありません。1996年のCBG外交と同様の記憶を北京の指導層に与えたはずです。
FONOPが航行の自由を保証する上では実効性があるとしても、南シナ海に中国が前哨拠点を築いたという現状はくつがえりません。すでに造成済みの人工島を撤去もしくはそこから撤退させるのは、強制政策の難しさから考えて不可能です。人工島の軍事的有効性については議論のあるところですが(抗堪性や縦深性、兵站維持の面などで)、地域諸国相手の領有権争いにおいては十分活用されるでしょう。米国が継続的にFONOPを実施することで、航行の自由だけはどうにかこうにか維持される、といったあたりで状況が推移すると思われ、米国の介入にそれ以上の期待をすることはできません。
そもそも、FONOPの実施がかくも大げさに取り上げられること自体が、ここ数年の米国の中国に対する過剰配慮に対するリバウンドですし、その配慮によって参照基準点=現状が変更され、抑止が難しい状況を作ってしまったとも言えます。もちろん、南シナ海問題を難しくした責任は一義的には中国にあり、オバマ政権だけにあるわけではないですし、相手の面子を潰さず立て過ぎず、というのは外交に限らず大変難しいものです。
今回、米中双方に軍事衝突を回避する努力があったのは大いに評価したいですし、今後は信頼醸成措置や連絡メカニズムの構築といった危機管理の強化を望みたいですね。ただ、現時点での偶発的軍事衝突は避けられていますが、米中両国がこうしたレベルでの緊張状態を繰り返していく「競争的共存関係」がこれからの常態となることについては再確認しておきたいと思う次第です。
【参考資料】
※1 飯田将史、『[PDF] 南シナ海問題における中国の新動向』、防衛研究所紀要 10(1), 2007-09、144-145ページ。
※2 リチャード・ネッド・ルボウは、動機によっては意思決定者が獲得のドメインでもリスクのある行動を好むとしており、これは従来のプロスペクト理論に挑戦するものと位置づけられています(伊藤、109ページ)。
※3 伊藤、113ページ。
※4 『[PDF] 領海及び接続水域に関する法』(1992)第6条によると、“To enter the territorial sea of the People's Republic of China, foreign military ships must obtain permission from the Government of the People's Republic of China.”とあります。これは、国連海洋法条約第19条の「無害通航である限り事前通告は不必要」という条文を拒否したものです。
(2014/11/14)プロスペクト理論:現状維持の「現状」ってどこ?
抽象的な説明で分かりにくいところもあったと思います。そこで、米海軍が南シナ海において「航行の自由作戦(Freedom Of Navigation OPeration:FONOP)」を実施したこの機会に、南シナ海問題という具体的な事例を当てはめてみると、より分かりやすいかな、ということで改稿・加筆してみました。
南シナ海の参照基準点はすでに変更されている
意思決定者は置かれた条件によって絶対的な価値に対して主観的な評価をします。この評価の基準となるのが、参照基準点です。国際政治で現状維持というときの「現状」とは、すなわち参照基準点のことです。現状=参照基準点は刻々と変化します。意思決定者の現状に関する主観的な理解(獲得/損失どちらのドメインにいるのか)だけでなく、欲求や期待水準によっても規定されるからです。しかも、人や国家は以下のようなやっかいな傾向があります。
獲得したものは短期間で「現状」になる――つまり、獲得したところまでが参照基準点となる――のに対して、失ったときにはなかなかそれを受け入れない――つまり、そこがすぐには参照基準点にはならないのである。
奪い合ったモノの所有者が入れ替わっても、しばらくは獲得者と損失者双方が同じものを「自分のモノ」だと思い込む状態が続くわけですね。
南シナ海に戻って考えると、米国がここ数年南シナ海における中国の行いを放置してきたために、中国の参照基準点はすでに変更されていることでしょう。すなわち、中国にとっての南シナ海の問題は、「獲得のドメイン」から「損失のドメイン」へと移っているはずです。
現状維持バイアス
意思決定者は、自分の考える現状=参照基準点に影響を受けてしまいがちな傾向があります。これを現状維持バイアスといいます。中国は南シナ海を歴史的に中国に属している “戦略的辺疆” だと考えており*1、奪ったのではなく取り戻したのだと認識しています。したがって、昨今の南シナ海進駐は中国にとって原状回復行動だったことになります。
南シナ海のシナリオでは、中国だけでなく米、ベトナム、フィリピンなども “現状” 維持を図っており、海域の支配や島・岩礁のコントロールに対して各々が損失のドメインで意思決定をしています。各係争国が現状維持バイアスに引っ張られた結果、高いリスクを受け入れてより大きなギャンブルをすることになる危険性もあります*2。
抑止に比べて強制は難しい
抑止政策は、相手国に対して将来の獲得の否定を要求します。一方、強制政策は過去の行動の解消・現在の行動の中止を迫ります*3。プロスペクト理論に従うなら、強制政策は相手国に損失を受け入れることを求めるために、抑止政策よりも難しいものとなります。ところが、ここでも問題になるのが参照基準点です。彼我の現状=参照基準点を見誤れば、抑止政策でさえも相手には強制とみなされ、難しいものとなってしまう危険性があります。すでに損失のドメインにあると認識している中国にとって、南シナ海での行動を押しとどめようとする米国の行動は抑止ではなく強制であると捉えているかもしれません。少なくとも中国にとって人工島12海里内でのFONOPを受け入れざるを得なかったこと、加えて米イージス艦(後詰めの空母がいますが)1隻でさえも接近阻止・領域拒否できなかったことは事実です。これは、中国の『領海法』(1992)が定めている「他国軍艦は無害通航であっても事前申請が必要」という国内法*4を否定されたことになり、抑止ではなく強制外交であると受け止めていても不思議ではありません。1996年のCBG外交と同様の記憶を北京の指導層に与えたはずです。
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FONOPが航行の自由を保証する上では実効性があるとしても、南シナ海に中国が前哨拠点を築いたという現状はくつがえりません。すでに造成済みの人工島を撤去もしくはそこから撤退させるのは、強制政策の難しさから考えて不可能です。人工島の軍事的有効性については議論のあるところですが(抗堪性や縦深性、兵站維持の面などで)、地域諸国相手の領有権争いにおいては十分活用されるでしょう。米国が継続的にFONOPを実施することで、航行の自由だけはどうにかこうにか維持される、といったあたりで状況が推移すると思われ、米国の介入にそれ以上の期待をすることはできません。
そもそも、FONOPの実施がかくも大げさに取り上げられること自体が、ここ数年の米国の中国に対する過剰配慮に対するリバウンドですし、その配慮によって参照基準点=現状が変更され、抑止が難しい状況を作ってしまったとも言えます。もちろん、南シナ海問題を難しくした責任は一義的には中国にあり、オバマ政権だけにあるわけではないですし、相手の面子を潰さず立て過ぎず、というのは外交に限らず大変難しいものです。
今回、米中双方に軍事衝突を回避する努力があったのは大いに評価したいですし、今後は信頼醸成措置や連絡メカニズムの構築といった危機管理の強化を望みたいですね。ただ、現時点での偶発的軍事衝突は避けられていますが、米中両国がこうしたレベルでの緊張状態を繰り返していく「競争的共存関係」がこれからの常態となることについては再確認しておきたいと思う次第です。
【参考資料】
- 土山實男、『安全保障の国際政治学 -- 焦りと傲り 第二版画像を見る』、143-172ページ。
- 伊藤隆太、[PDF] 国際政治研究におけるプロスペクト理論 : 方法論的問題と理論的含意、法学政治学論究 : 法律・政治・社会 (98), 103-132, 2013.
- 久保田 徳仁、プロスペクト理論の国際政治分析への適用――理論及び方法論の観点から見た現状と課題――、 『防衛大学校紀要(社会科学分冊)』第92輯 (2006年、1~24ページ).
※1 飯田将史、『[PDF] 南シナ海問題における中国の新動向』、防衛研究所紀要 10(1), 2007-09、144-145ページ。
※2 リチャード・ネッド・ルボウは、動機によっては意思決定者が獲得のドメインでもリスクのある行動を好むとしており、これは従来のプロスペクト理論に挑戦するものと位置づけられています(伊藤、109ページ)。
※3 伊藤、113ページ。
※4 『[PDF] 領海及び接続水域に関する法』(1992)第6条によると、“To enter the territorial sea of the People's Republic of China, foreign military ships must obtain permission from the Government of the People's Republic of China.”とあります。これは、国連海洋法条約第19条の「無害通航である限り事前通告は不必要」という条文を拒否したものです。