記事

洗剤に活路見出した元“ドラ1”本格派左腕 真木将樹(大阪近鉄バファローズ→読売ジャイアンツ) - 高森勇旗

著者 高森勇旗 (元プロ野球選手)

「はやく戦力外になって、綺麗さっぱり野球を辞めてしまいたい」

 2001年に大阪近鉄バファローズから読売ジャイアンツへトレードで移籍してきた真木将樹は、結果の出ない自分への焦りや苛立ちを隠せずにいた。投げても投げても戻らない感覚。ボールを持つことさえ心が抵抗する。横を見れば、引退間際の斎藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己がジャイアンツ球場で必死に汗を流している。ベテランの真剣な表情を見るたび、心は荒んでいった。「頑張っている人と話ができない。俺はもう夢を諦めた人間だから」。

画像を見る
真木将樹(Masaki Maki)
大阪近鉄バファローズ→読売ジャイアンツ1976年2月生まれ。福岡県出身。東筑紫学園で甲子園出場。法政大学では1年春から登板。同学年の慶應義塾大学の高橋由伸、明治大学の川上憲伸らとしのぎを削った。98年、ドラフト1位で近鉄バファローズに入団。2001年のシーズン中に読売ジャイアンツにトレード。02年に戦力外通告を受ける。03年はカナダの独立リーグで野球を続けるも、04年に引退。06年にアルク有限会社を起業。

 心に押し寄せる虚無感に苛(さいな)まれ、ただただ「その日」が近づいてくるのを待つ日々。そんな中、ふと心の声に気づいた。「辞めた後の生活は、どうなるんだろう」。小学校で野球を始めて以来、ずっと野球一筋で生きてきた真木にとって、野球はもはや生活そのものとなっていた。「辞める」ということを明確に意識した途端、野球のない日々への寂しさが心を揺り動かした。

 「野球を嫌いで辞めてはいけない。野球と素直に向き合ってから辞めたい」

 どこのチームでもいい。自分にとっての野球というものの意味づけが終わらないうちは、辞められない。「辞める」ことを決めたとき、「辞められない」自分に気がついたのだ。

 再燃した野球へのおもい。トライアウトに向け、猛練習をすることを決めた。時を同じくして、電話が鳴る。

 「明日、寮に来てもらえないか?」

 なんの話かは分かっていた。翌日、応接室には、トレードの時に顔を合わせた球団職員がいた。何を言われたかはよく覚えていない。真木の心は既にトライアウトに向いていた。

神宮のスター選手だった大学時代

 1998年、ドラフト1位で法政大学から入団した真木は、1年目から6勝を挙げ、新人王候補にも名を連ねるなど、将来を嘱望されていた。2年目、フォームの改造に着手すると、目に見えて球速が落ちていった。

 酷使し続けた体が悲鳴をあげたのかもしれない。高校1年時から投手を始め、3年間投げ続けた真木は、大学に進学後も、1年春から4年秋まで投げ続け、通算25勝。28勝を挙げた明治大学の川上憲伸(中日ドラゴンズ)のライバルとして君臨し、学生時代の7年間、投げ続けた。酷使の影響からか、プロ3年目には最速145キロを誇っていた球速も130キロ前後まで落ち、投手としての能力の低下は火を見るよりも明らかだった。4年目、真木はジャイアンツにトレードとなる。

 「心機一転、チャンスだと思った」

 しかし、環境が変われど、一度崩れたバランスは簡単には戻らなかった。どんな練習をしても、「全く」戻らない感覚。トレード移籍で加入した立場でありながら、一度も一軍登録さえされぬまま、4年目を終えた。

 迎えた5年目。前年の秋季キャンプから必死に練習に取り組み、自主トレ、春季キャンプとあの手この手を尽くしたが、何をやっても効果は出なかった。ほとんど登板機会もないまま、真木は戦力外通告を受けた。

 数球団のトライアウト、合同トライアウトを受けるも、声はかからない。知り合いのツテをたどり、行き着いたのはカナダの独立リーグ。真木はもう一度野球と向き合うため、海を渡った。

 「言葉も文化も何もかも違う場所で、本当の意味で野球に集中できた」

 ドラフト1位、トレード移籍、真木の肩に乗る「肩書き」は、この地では何の意味も持たない。真木は心から野球を楽しんだ。しかし同年8月、このリーグは経済難により閉鎖。帰国した真木は、翌年メジャーリーグのトライアウトを受けるために練習に励む。翌年2月、フロリダ、アリゾナの十数球団のトライアウトを受けて回るも、声はかからなかった。しかし、野球への未練はなく、清々しい気持ちで引退を決めた。野球と向き合い、野球がない日々を受け入れるには十分な時間だったと、真木は優しい目をして語った。

 04年、真木のセカンドキャリアが始まる。「野球を辞めたら、一緒に仕事をしよう」と、以前から声をかけてもらっていた先輩に連絡し、そこから丸2年程、プロ野球球団のグッズの企画制作を請け負う仕事をした。

「今から考えれば、安易な考えで職を決めたと思う」。とりあえず仕事につかなければ。そんな差し迫る思いもあったのだろう。自分に何ができるか、何をやりたいかを深く考えないまま仕事に就いた真木は、先輩との方向性の違いから、独立することを決めた。

 仕事のキッカケも、ノウハウも、ほとんどゼロからの起業。関係各所に挨拶回りをするだけの日々。それまでの付き合いの中からいくつか仕事は生まれていたが、08年までの2年間は自身の給料を取れない経営だった。貯金を切り崩しながらの生活の中、ひたすら人間関係を構築していった。

 09年からは、シャンプーや化粧品の企画、製造に関わった。高校野球部の同級生の紹介などもあり、安定的な仕事も増えだした。給料が取れるまでに成長し、一時は年商1億円に手が届く手前まで伸びた。

 「野球を辞めて、人とのつながりほど重要なものはないと、つくづく思う」

 生活をしていくことへの不安さえあった真木の言葉は重い。仕事がなかった日々を回想するように語る真木の目は、まさに経営者のそれだった。

 11年、高校の野球部の監督をやっている先輩に、「ユニフォームを簡単に洗える洗剤を作れない?」という提案を受け、試行錯誤の末に1年程かけて開発。当時は先輩のために、半ば慈善事業のように開発をしている中で、思いの外、需要があることに気づく。真木は自社商品として商品化することを決める。現在、小学生、中学生の野球少年をもつ親を中心に着実に売れる商品へと伸びつつある。

 すっかりビジネスマンとしての風格を漂わせている真木は、プロ野球選手のセカンドキャリアについて、自身の経験も照らし合わせて語る。

 「今まで野球一筋、それしか知らない人生を歩んできた人間にとって、最初の職業は慎重に選ぶべきだと思う。それには、選択肢を多く持つこと。焦って決める必要はない」

 現在、仕事と並行して「ドリームネクスト」というサイトを運営している。プロ野球選手が引退後どのような職に就き、活躍をしているのかを知ることができるサイトだ。「引退後の厳しい実態も知ってもらいたいと思って運営している」と話す。好きな野球を嫌いになるまで悩み抜いた現役時代。給料の取れない経営者時代など、様々な壁を乗り越えてきたからこそ、真木の言葉の一つひとつは、非常に深い。

著者
高森勇旗(たかもり・ゆうき) 元プロ野球選手

1988年生まれ。富山県高岡市出身。中京高校から2006年横浜ベイスターズに高校生ドラフト4位で入団。田中将大、坂本勇人、梶谷隆幸やと同学年。12年戦力外通告を受けて引退。ライター、アナリスト、マネジメントコーチなど引退後の仕事は多岐にわたる。

あわせて読みたい

「プロ野球」の記事一覧へ

トピックス

ランキング

  1. 1

    橋下氏 任命拒否の教授らに苦言

    橋下徹

  2. 2

    田原氏 野党は安易な反対やめよ

    たかまつなな

  3. 3

    倉持由香 初の裸エプロンに感激

    倉持由香

  4. 4

    コロナ禍も国内工場は異常な強さ

    PRESIDENT Online

  5. 5

    iPhone12かProか...売り場で苦悩

    常見陽平

  6. 6

    数字を捏造 都構想反対派の欺瞞

    音喜多 駿(参議院議員 / 東京都選挙区)

  7. 7

    ベテランは業界にしがみつくな

    PRESIDENT Online

  8. 8

    のん巡る判決 文春はこう考える

    文春オンライン

  9. 9

    社民党分裂 背景に立民の左傾化

    音喜多 駿(参議院議員 / 東京都選挙区)

  10. 10

    世界も注目 鬼滅映画の大ヒット

    木走正水(きばしりまさみず)

ランキング一覧

ログイン

ログインするアカウントをお選びください。
以下のいずれかのアカウントでBLOGOSにログインすることができます。

コメントを書き込むには FacebookID、TwitterID のいずれかで認証を行う必要があります。

※livedoorIDでログインした場合、ご利用できるのはフォロー機能、マイページ機能、支持するボタンのみとなります。