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新・脱亜論 「内なる中国」と闘え - 平野聡(東京大学大学院教授)

中国中心の「華夷秩序」に対峙してきた日本。対中関係「最大の失敗」はどこにあったか

 日本の存立を考える上で、すぐ西に存在する大国である中国との関係は無視し得ない。ある意味で日本の歴史とは、如何にして中国とは違った国家を存立させるのか、そして中国からも一目置かれて並び立つにはどうすれば良いのか、という困難な課題の積み重ねであったと言えよう。それは同時に、一歩選択を間違えれば、日本という存在が中国の影響(あるいは、中国をみる国際社会の「幻想」)にからめ取られて致命的な失敗に陥ることを意味する。

 清朝史・近現代中国史を主に学んできた筆者のみるところ、戦前、ことに昭和における最大の失敗は、このような難題をめぐって明治期になされた努力の精華を、日本自身の傲慢によって食いつぶしたことにある。

華夷秩序と対峙して

 前近代の日本が常に直面してきたのは、中国中心の世界観に基づく「天下」の秩序とどのようにして付き合うべきか、という問題であった。

 漢字と豊かな農耕社会を生みだした中国文明は、自らを完全なる「華」、他者を不完全な「夷」=野蛮人と見なし、「夷」は「華」の影響力を自発的・積極的に受け容れるべきで、そしていずれは「華」に同化して行くべきという考え方をとった。しかも、上下の関係を遵守することこそ万物が安定する基本と考える儒学思想が、このような世界観を補強した。

 具体的にいえば、「天下」の中心たる「華」に君臨する「天子=皇帝」が、権力のみならず文化、価値観、道徳の解釈権を独占する。そして、外国=「夷」にも恩恵を与えて臣下の位に登らせ、「天下」における然るべき居場所を与える。その結果、「夷」は皇帝の恩情に感激し、皇帝が営む秩序の安定を助けることが期待された。この「天下」の論理、「華夷秩序」こそ、中国文明を貫く原理である。

 しかしこの結果、「夷」とされた周辺諸国は難しい選択を迫られた。黄河の中流で生まれた中国文明の権威を無条件に受け容れて慕うのか。抵抗せずにその影響力の大きさを表向き認めて面従腹背・是々非々の関係をとるのか。いずれにしても「華夷秩序」を受け容れれば、その国は朝貢国となる。前者は例えば明と朝鮮、明清と琉球の関係があるし、後者は大部分の朝貢国が当てはまった。

 いっぽう、彼らの自己中心的な主張を拒否し、明確に抵抗の意思を示すならば、「天下」の中心に君臨する皇帝権力は、たちどころに不遜と見なして怒りに震え、「天威」をふるって懲罰しようとするだろう。とはいえ実際には、「天朝」の側にはそこまでの予算はないため、総じて「化外」(教化の外)として放置される。

 あるいはたまに、大陸の側が勢いに乗って、武力で朝貢・服従を迫ることもある。元寇はその典型的な事例であろう(元はモンゴル帝国の一部分であるが、大都=北京遷都後は、中国的な支配の論理を採り入れた)。

 逆に、貿易の利益を狙ってうごめき略奪を働く辺境の民に手を焼いた「華」が、辺境民を管轄する権力者に対し、略奪民を取り締まることを条件に、朝貢を認めて莫大な貿易の見返りを与えると約することもある。明の朱元璋が足利氏に倭寇対策と朝貢を要請し、足利義満がそれに応えて「日本国王」の号を受けたことは、その代表的事例である。

 こうした歴史を経て、「夷」とされた日本の側に強い疑問が浮かんだ。江戸時代に入って「天下泰平」が実現し、学問への関心の高まりから儒学思想が流入する中、果たして「華」の側のいう通りに日本は彼らを慕わなければならないのか、「華」は本当に「華」と呼ぶに値するものなのか。権謀術数や奸民の跋扈により、どんな「天下」も必ず二〜三百年で倒れて断絶する「から・漢」の歴史よりも、たとえ南北朝問題や戦国武将による混乱はあっても「万世一系」が保たれ、人心も「素直」な日本の歴史の方が好ましいのではないか。

 このような発想が、本居宣長に代表される国学の核心にある。また儒学の側も「万世一系」こそ「天理」とみなし、日本を「天下」の中心とする原理主義=水戸学へと転化した。

 要するに、「華」の言説がいつの間にか日本固有のものとして換骨奪胎され、日本中心の「華夷秩序」が理念上出来上がったことになる。そのことを端的に示したのが、水戸学の代表的思想家である会沢正志斎『新論』の、天地万物を総攬する天皇と、その秩序を乱そうとする強大な「夷」=白色人種との全面対決の構図、すなわち「尊皇攘夷」であった。

福沢諭吉の「国体」論

 しかし、19世紀において西洋がアジアへと勢力を拡張した結果、「華」「天朝」たる清がその座にとどまることを許されなくなったのみならず、日本版「華夷秩序」をも根本から揺さぶった。既に清は、アヘン戦争後の南京条約(1842年)において、これまでの朝貢関係の延長における管理貿易とは全く異なる論理による自由貿易港=条約港の設置を認めさせられた。さらにアロー号戦争では、西洋が求める対等外交に清の守旧派が反発するあまり、英仏軍が北京に攻め込む惨事に見舞われた。そこで結ばれた北京条約(1860年)では、西洋との外交関係において最早「夷」という卑称を用い得なくなり、万国公法=国際法のもとでの相互の対等を旨とする近代的な国際関係を認めさせられた。

 日本も、まさにアヘン戦争の結果日本近海に姿を現した米国による開国要求に応じ、日米和親条約(1854年)を締結し、目まぐるしく動く国際情勢への対応を強いられた。

 このような状況に至れば、唯我独尊的な発想によって他国との往来を拒み、高圧的な対応に終始することはできない。むしろ当面、西洋のハード・ソフト両面の力が優れていることを認めつつ、しかも西洋が持ち込む万国公法の下における諸国の平等という発想の中に生き残りの道があることを見出しつつ、人々の思考を伝統の狭い枠の中から解き放ち、西洋と自国の長所を組み合わせて新しい文明と社会を切り開くことの方が得策である。これこそが、明治という時代を成り立たせた啓蒙の精神であったといえよう。

 福沢諭吉の代表作として知られる『文明論之概略』は、このような危機感に基づいて書かれた。

 当時の国学者・水戸学者・攘夷論者は、日本を「金甌無欠・万国に比類なき国体」と称し、「万世一系の皇統」の絶えざることを誇っていた。しかし福沢のみるところ、そのこと自体は必ずしも重要ではなかった。

 何故なら、西洋文明が圧倒的に存在感を持ち、あるいは歴史的に中国文明の強い影響を被りかねなかった日本にとって、何と言っても日本人自身が日本という国家を成り立たせ維持してきたこと(外国人に政治の主導権を奪われないこと)こそ「国体」の本質であり、その一点においては足利氏などの「朝敵」であっても問題なかったからである。一身が独立不羈の個人となり、創意工夫を探求することによって、ひいては社会・国家が繁栄し、独立が保たれて「国体」も続き、尊皇攘夷論者が死守しようとする天皇家の威光も輝くことから、決してこの順序を間違えるべきではない、と福沢は説いた。

 当面、西洋近代の流儀を採用して、一身の独立と一国の独立を両立・維持するという福沢の戦略に、二重の意味で立ちはだかったのが、旧い中国文明の遺物であった。一つは、専制権力が価値観や道徳の基準を独占し多様性を阻む問題であり、もう一つは「華夷」「天下」秩序が、対等な国家間関係を旨とする近代外交と著しく矛盾するという問題であった。

 価値観の問題をめぐって、儒学思想の伝統は、人間そして万物を上下の秩序に固定し、価値を独占した権力者に服従させる。しかし価値観を一元化すれば、あらゆる創意工夫や競争は芽を削がれ、個人の進歩、文明の進歩、一国の独立という構想は到底実現し得ない。

 また、至高の専制権力が英明にして、「民に親しむ」という儒学の理想通りに善政を行うならばまだしも、もし専制権力とその取り巻きが暗愚に陥ればどうなるか。判断ミスや失政をチェックし正す仕組みが働かず、社会全体が蒙る災厄は計り知れない(中国文明における王朝交代期の混乱は総じてこのようなものである)。

 福沢は、価値を独占しようとする儒学的体制を「支那の神政府」と呼び、日本は幸いにしてこの悪弊からは免れていることを尊んだ。日本では武家政権が生じて以来、天皇と武家に権威と権力が分散しており、したがって特定の存在が価値を独占せず、自由に行動し考える多元的な空間が存在したからである。そこで福沢は、日本は中国文明と比べ、西洋文明を採り入れて新境地へ進みやすい位置にあり、中国文明は一旦破綻して根本的に悔悟しなければ生まれ変わることは出来ないと喝破した。

 明治新政府は天皇を元首と位置づけ、国民=臣民にその存在感を知らしめたが、総じて福沢の文明化構想に則って国家建設を進めたと言ってよいであろう。

 明治新政府にとっての悲願である条約改正によって名実ともに欧米と対等な国家となるためには、西洋文明の価値観からみて劣ることなき公正な規範を整備して社会を運営し、経済発展を図ることが第一であり、その一つの達成点こそが大日本帝国憲法の発布・帝国議会の創設による立憲主義への移行であった。

「脱亜=脱華夷」のための日清戦争

 国内において西洋と日本の折衷を図る以上、外交面において近代外交に基づいて周辺国との関係を改め、主権の範囲を確定し、自立を図ろうとするのは当然であった。そのためには、清・朝鮮とも対等な外交関係を結ばなければならない。琉球のように、薩摩と清双方の影響が及ぶ曖昧な場所については、帰属を整理しなければならない。

 そこで清との関係については、江戸期における「互市」関係(=日明・日清関係のこじれゆえに双方が疎遠を選んだ結果、朝貢関係を設定せず、冷淡な貿易のみを行った)から、一躍対等な外交関係に持ち込んだ(1871年の日清修好条規)。しかし琉球の帰属については、1874年の台湾出兵(琉球属民が台湾南東部に漂着し殺害された事件の報復を日本軍が行い、その結果を清に認めさせた結果、国際法上、琉球=日本という図式が確立)を経て、1879年の琉球処分=琉球藩廃止・沖縄県設置という痛みを伴わざるを得なかった。

 そして何と言っても朝鮮については、朝鮮が清に朝貢することを除けば、内政や日本との関係のいずれも自主的に判断していることを根拠に、日本は朝鮮を独立国と見なした。これに対し清は、朝貢関係を国際法上の宗主国と属国の関係に読み替え、朝鮮の独自外交の余地を否定しようとした。清は西洋との対等外交と、周辺との「天下」秩序に由来する宗属関係が並存しうると考えたが、もし日本がそれを容認すれば、清中心の「天下」の影響下で外交を展開するという苦境を強いられる。

 1885年、朝鮮の開化派がクーデタで潰えたのちに書かれた福沢の「脱亜論」は決して、今の中国や韓国が非難するごとき、日本がアジアを脱して彼らを卑下するという趣旨ではなく、清や朝鮮が固執する「天下」意識と「支那の神政府」ぶりに日本が巻き込まれることを拒み、冷淡に対応するよう主張したものといえる。

 そして、この矛盾を一気に強行突破するために断行されたのが1894年の日清戦争であり(詳しくは陸奥宗光『蹇蹇録』を参照されたい)、その結論たる下関条約の第一条は「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス」、すなわち朝鮮の独立に尽きる。

 日本国憲法の下で教育を受けた筆者は、今後の日本が紛争の解決手段としての戦争を永遠に行うべきではないと信じるが、かりに日本近代史上戦わざるを得ない戦争があったかと問われれば、日清戦争を挙げる(当時はまだ戦争違法論の時代ではなかった)。平等・公正・自由を旨とする近代国際秩序と、上下・恣意・反自由(民は依らしむべし、知らしむべからず)の「天下」秩序には天地ほどの懸隔があり、福沢が『文明論之概略』で語った通り、後者から前者への転換は相当の政治的・思想的衝撃がなければ進まないためである。

 もし日本が日清戦争に敗北していれば、朝鮮=韓国の独立など有り得ない。今頃は中華人民共和国の一部分であるとしても不思議ではない。

 もちろん、国際法の規範や近代の諸々の理想は、強者のみが享受するものであったことも否めない事実である。実際に日本は列強との関係において、条約改正を実現し国際政治上の相応の地位を得るなどしたが、逆に敗北した清は凄まじい勢力圏分割の餌食となった。アジア・アフリカにおける植民地支配の拡大も、とどまるところを知らなかった。しかもその現実は、当時流行した優勝劣敗論(社会進化論)や「文明の責務」論によって正当化されていた。また朝鮮をめぐっては、朝鮮改め大韓帝国の混乱を経て、日本が彼らの意に沿わない支配をすることになり、下関条約第一条の意義を日本自身が損ねたことも忘れてはならない。

 しかし同時に、日本が近代国家として台頭したこと自体が、国際社会における権力と知識の偏在に風穴を開け、非西洋世界にも多種多様な言論を巻き起こし、独立と自由を鼓舞したことも事実である。そのような動きは何処にも増して、清末社会において巻き起こった。当時の若手エリートは、最早「天下」に君臨するという態度では列国が競い合う世界の現実に適応できず、専制支配を一刻も早く廃して立憲制へ移行すべきで、活力ある民間社会あってこそ富強な国家を営みうると説いた。

 この動きは1898年、戊戌変法と呼ばれる改革運動として沸き起こり、一旦保守派のクーデタによって潰えた。それでも、リーダーの一人・梁啓超は日本への亡命を余儀なくされた後、ますます立憲主義的な近代国家形成の意気に燃え、日本語に翻訳された西洋政治・社会学説の膨大な成果を漢語に翻訳したほか、改革志向のメディアを日本で経営した。梁の議論に触発された膨大な数の知識人は、「日本経由の西洋近代」に目覚め、全面的近代化政策=清末新政の素地が作られていった。一部の知識人は、満洲人皇帝に見切りをつけて革命派へと転じたものの、日本の近代国家としての成功に鼓舞されて、独立・自主の主権国家として生き残りうる中国をつくろうとしていたという点では全く同じであった。

日本自身が「神政府」化した

 20世紀前半の日本が、もし福沢が構想した通り、華夷思想・上下関係の「天下」とは全く異なる、独立自尊・相互尊重を前提とした外交モデルを展開すれば、その後の歴史はどうなったか。日本に刺激された諸国(とりわけ中国)のナショナリストと適切な関係が生まれ、第一次大戦を挟んで西洋でも民族自決・戦争違法論が台頭する中、日本がアジアと西洋の利害関係を調整する存在として広く期待されたのかも知れない。

 しかし、歴史的にはそのようにならなかった。福沢は『文明論之概略』にて、現実の明治日本が祭政一致を掲げていたことに警戒の念を隠さず、もし将来価値の独占が発生するならば、日本のたどる運命は中国文明と同じく暗いと予言した。「華」を相対化する日本のナショナリズムは、一面では「天下」秩序を過去のものとすることに成功したが、別の一面では天皇・日本中心の新たなる「天下」を志向していた。とりわけ、黄色人種と白色人種の対立という図式が帝国主義の時代に喧伝され、黄色人種・アジアを一元的に指導する日本という存在が強調されるに至って、「支那の神政府」に抵抗していたはずが、「日本の神政府」を他のアジア諸国に押しつけ、日本に対する抵抗を招くという逆転を許してしまったのである。

 既に日清戦争の時点で、戦勝に沸く日本国内の世論は激しい反清論・対外拡張論に沸いていた。それが本来の日清戦争の目的をはるかに超えて、逆に日本の国際的立場を弱めてしまう可能性について、陸奥宗光『蹇蹇録』でも「勝者がかえって敗者よりも危険の位置に陥るの恐れあり」「もし深慮遠謀の人あり、妥当中庸の説を唱うれば、あたかも卑怯未練、毫も愛国心なき徒と目せられ」等々、生々しく語られている。

 だからこそ伊藤博文内閣は、早々に戦争を終結させてナショナリズム的感情を満足させるとともに、外交上の妥協を模索したのであった。そして西洋からの「非キリスト教国であっても、戦時中の振る舞いは『文明』の基準に達した」という称賛についても、陸奥は「本当に日本が、西洋によって代表されていた文明の価値を極限まで進める存在になりうるかは、将来の課題である」として、決して日本の置かれた国際的・文明史的位置に満足することはなかった。

中国に及ぼした一大災厄

 ところがその後の日本は、1915年の「対華21ヵ条」以後、中国権益(とりわけ満蒙)に固執するあまり、中国ナショナリズムの期待(日本に学んで近代国家として生まれ変わろうとする中国を、日本も支持すること)を裏切った。

 とりわけ蔣介石は、日本陸軍に学んだ知日派の中の知日派であり、他の居並ぶ中国ナショナリズムの名士の多くも、日本で近代の何たるかを身につけた人々であったことを考えれば、自ら信じた日本から受け続けた屈辱は計り知れなかったであろう。そして日本は中国問題をめぐって英米とも懸隔を生じ、第一次大戦後に固めた国際的立場を自ら狭めた。

 蔣介石・国民党は確かに独裁的であったが、将来設計として中国の立憲政治確立(民権主義)を掲げていた(最終的には台湾の民主化として結実する)。そのような国民党の体力が日中戦争で削がれ、代わりに台頭した毛沢東の酷政のもと中国は未曾有の大混乱に陥った。

 今日の中共も依然として「党の指導」という名の価値独占を図り、権力の恣意に対する歯止めを欠いた中国社会では矛盾が山積している。私見では、これはある意味で、日本が中国に及ぼした一大災厄であろう。

 いっぽう日本では、国際環境の悪化や世界恐慌の影響の中、一部の軍人が「君側の奸」を取り除くと称して、穏健かつ立憲主義的な内政・外交に努めていた人々を排除し、「国体明澄=明徴」の名のもと、自らこそが天皇の真意を体現した政治を行い得ると称して価値観を独占した(柴田紳一「天皇機関説事件」)。

 その結果、70年前の日本は国家滅亡の淵に陥り、GHQの支配するところとなり、福沢諭吉が何よりも重視した国体(=日本人が日本の政治を執りおこなうこと)を一時失ってしまった。

 敗戦という未曾有の危機にあたって、統治権を総攬するとされた昭和天皇が透徹した理性の持ち主であったからこそ、日本は完全なる滅亡を免れて再生するきっかけを得られた。しかし、もし昭和天皇の人格がそのようなものでなければ、日本はどうなっていたのか。最後に天皇という人格に頼らざるを得なかったこと自体、国家としては失敗である。それは一歩間違えれば、天皇という象徴的存在自体を棄損しかねなかった。

 要するに戦前の日本は、外交秩序と文明観の両面において、中国的な「神政府」の発想=価値の独占を否定しようとして、その実いつの間にか、自らの成功物語に基づく新たな「天下」志向、明治体制に組み込まれた価値の独占志向=日本国体論にとらわれ、かつての中国文明と全く同じ陥穽に陥ったものと考える。戦後の日本の平和で自由な国家としての歩みが、そのような「内なる中国」を自省して距離を置くものであったと信じたい。

 そして今改めて中国が台頭し、旧い中国文明の自己中心的な発想そのままに「中国夢」を展開してアジア太平洋地域を攪乱しつつある中、日本が引きつづき、自由で開かれた国際社会の担い手として多くの国々から尊敬を受けて存続・繁栄するためにも、我々は「内なる中国」と闘わなければならないのである。

■プロフィール
ひらの さとし 1970年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学。著書に『「反日」中国の文明史』(ちくま新書)、『大清帝国と中華の混迷』(講談社)など。

決定版
知性で戦え 昭和史大論争

・昭和史を武器に変える10 の思考術(佐藤優)
・戦前エリートはなぜ劣化したのか(磯田道史)
・満州事変「解決」を妨げたマネー敗戦(広中一成)
・総力戦の罠にはまった永田鉄山(川田稔)
・「南京事件」の総決算(原剛)
・石橋湛山の「小日本主義」とは何だったのか(上田美和)
・戦前日本の石油政策 失敗の本質(岩瀬昇)
・日米関係を悪化させたグローバリゼーション(高光佳絵)
・統制経済 岸信介の選択(中野剛志)
・最大の失策「三国同盟」を招いた対ソ恐怖症(清水政彦)
・なぜ海軍は戦争を止められなかったのか(手嶋泰伸)
・戦略なき作戦 ミッドウェー真の敗因(星野了俊)
・ヒロシマ・ナガサキ 核抑止の原点(三浦瑠麗)
・侍従武官未発表日記が明かす「昭和天皇の戦争」(保阪正康)
・司馬遼太郎と三島由紀夫「国民作家」の戦争体験(福嶋亮大)
・世界文化遺産にも反対 韓国歴史アタックに備えよ(澤田克己)
・新・脱亜論「内なる中国」と闘え(平野聡)

満州事変から安倍談話まで
30代論客白熱討議 あの戦争の呪縛を解く(白井聡×浜崎洋介×三浦瑠麗)

戦後70年 3大論争に決着をつける
・徹底比較 東京裁判  vs.ニュルンベルク裁判(日暮吉延×芝健介)
・慰安婦問題 なぜ冷戦後に火が付いたのか(木村幹)
・靖国神社とおおらかな昭和(古市憲寿)
・年表で読む歴史認識論争(三浦小太郎)

・憲法学者たちはいつまでごまかしを続けるのか 緊急提言 憲法から九条を削除せよ(東京大学教授 井上達夫)

・名将・今村均 97歳長男が語る「父と戦争」(今村和男)

・カタヤマ教授 入試問題で解く昭和の戦争(片山杜秀)

特別座談会
世界史の中の日米戦争 失敗の根源 なぜアメリカと戦ったか (半藤一利 船橋洋一 出口治明 阿川尚之 川田稔)




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