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日本の大学のあり方を考える

あるやり方が全てではない。他のやり方を知るのは、あるやり方を必ずしも否定するわけではなく、他のやり方が全面的に正しいというわけでもなく、とにかく比較の基準を持つことによって、自らのやり方を相対化し、改善するメタ認知のテコの視点を得ることであろう。

日本の大学の将来が心配だ。その原因の多くは、文部科学省が大学の現場の運営に口を出しすぎて、結果として教員の自由が奪われ、時間が逼迫し、結果として学問を行う上で必要な自由闊達さが失われている点にあるように思われる。

日本では、「大学設置基準」というものがあって、新しい大学を文科省が「認可」する。認可されると補助金などもろもろが交付される。だが、例えばアメリカでは、大学は民間で「勝手」につくるもので、連邦政府が認可するものではない。

唯一あるのが、大学同士がいわば「民間」どうしでお互いの単位を認め合ったりといった、民間の認証システム。そこには、国がトップダウンで大学の教育内容を認可し、コントロールしようという発想がない。

英国のケンブリッジ大学、オックスフォード大学の多くのカレッジは、莫大な不動産を持つなどして、国の補助にそれほど頼らなくても運営できる。ハーバードなども卒業生の寄付金などでかなり潤沢な資金を持つと聞く。国に箸の上げ下ろしまで言われないという資金的裏付けが学問の自由を担保している。

文科省は、日本の大学をグローバル化して、大学ランキングを上げたいのだろうが、その大学改善へのアプローチが根本的に間違っている。大学の教育の質的担保を、国がトップダウンでコントロールし、その進捗を補助金の増加、カットで実現しようという発想自体が大学の学問の質を低下させる。

最近の大学関係者から聞くのは、例えば、年間の授業時間を何時間確保せよ、そのためには国民の祝日まで授業をやれ、成績をつける際の基準を明確にせよ、そのためには上位何名、下位何名の答案を添付してエビデンスを示せ、みたいな話だが、どれも学問の本質とは無関係。愚者の余計な口出しに見える。

例えば、数時間集中して講義をして、それを一単位と認める裁量権が大学にあってよい。そもそも、学問の質は、時間で単純に測れるものではない。その程度の見識がない人たちが余計な口を出すから、ますます書類主義、形式主義がはびこり、日本の大学の教員の精神が脅かされ、学問の質が低下する。

日本の大学の質的改善を図るためには、何よりも、制度上、設置基準などを緩和すること、可能ならば財政的に国から独立するのが望ましいが、難しい場合、国の財政的補助と、国の大学運営への関与権を切り離し、文科省が大学の運営の細かいところまで口を出せないようなシステムにすることだろう。

文科省が主導して大学のあり方を変えていくというモデル自体が、発展途上国の開発独裁のような段階であり、成熟した文明国である日本にはそぐわない。学問の本質は自由であり、自由な市場での競い合いがあって初めて世界の中で輝く独創性も生まれる。文科省官僚のみなさんに、強い自省と自制を求める。

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