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特攻隊員になった朝鮮人・光山文博の切なき歌声 - 早坂隆(ノンフィクション作家)

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――『Voice』2015年8月号総力特集[戦後70年、日本の十字路]より

訪日と入隊


 大東亜戦争下、「航空機による特攻」で戦没した日本軍将兵の数は4000人を超えるが、その中には20名ほどの朝鮮人も含まれていた。

 その内の一人、卓庚鉉は1920年11月5日、朝鮮半島の慶尚南道泗川市にて生まれた。後の日本名、光山文博である。

 卓庚鉉が生まれたのは、日本が政府間交渉を経た上で、国際的な承認のもとに韓国を併合してから10年目にあたる。

 卓庚鉉の誕生時、一家の暮らしは裕福な方だったとされる。しかし、祖父が事業に失敗した結果、生活は次第に困窮。そんな彼らが選んだのが、日本に「出稼ぎ」に赴き、生計を一から立て直すという道だった。卓庚鉉がまだ幼少だった頃の話である。

 訪日した彼らは、京都府に定住した。当時の京都には、1万人以上もの朝鮮半島出身者が住んでいたと言われている。併合以降、朝鮮よりも賃金条件の良い日本での仕事を求めて、多くの朝鮮人が海を渡っていた。

 結局、卓庚鉉の父・卓在植は、京都市内で乾物商を立ち上げた。

 こうして彼らは、所謂「在日」となった。決して「強制」や「徴用」によって日本に来たわけではない。この歴史的背景をまず適確に押えておかなければ、卓庚鉉の生涯の輪郭に触れることはできない。

 一家は「光山」という姓を名乗り、卓庚鉉は「光山文博」となったが、この改名も法的強制によるものではない。当時、「朝鮮名のままだと商売がやりにくい」といった理由から、多くの朝鮮人が日本名に改名した。卓庚鉉の一家もこの例に当てはまると考えられる。

 光山文博は地元の小学校を卒業した後、立命館中学へと進んだ。名門中学への進学は、彼自身の十分なる能力の高さを証明するであろう。

 いずれにせよ、光山は人生の大半を日本で過ごしており、朝鮮に関する記憶は殆どなかったと思われる。光山は日本の教育を受け、日本語を使いながら育った。その後、光山は京都薬学専門学校(現・京都薬科大学)に進学した。

 昭和18年(1943年)9月、同校を繰り上げ卒業となった光山は、翌10月に陸軍特別操縦見習士官(特操)を志願。見事、試験に合格し、同校の第一期生となった。陸軍特別操縦見習士官とは、高等教育機関の卒業生や在校生の志願者の中から、予備役将校操縦者として登用された者のことを指す。愛称は「学鷲」。短期間で優秀な航空要員を養成することが、同制度の目的であった。

 併合後の日本は、朝鮮人に対して徴兵制を敷かなかった。しかし、少なからぬ朝鮮人が「日本人と共に戦いたい」と入隊を希望した。日本軍が朝鮮人に門戸を閉ざすことこそ「差別」「屈辱」であると彼らは主張した。

 昭和12年(1937年)、日本の衆議院議員となっていた朝鮮出身の朴春琴が「朝鮮人志願兵制度」を請願。翌昭和13年(1938年)、「陸軍特別志願兵令」が公布されたことにより、朝鮮人による兵卒の志願が認められるようになった。日中戦争下、朝鮮人の志願兵は右肩上がりに増え続けた。

 かかる時流の中で、光山は陸軍特別操縦見習士官への道を志願したことになる。

 ちなみに、朝鮮人への徴兵制が施行されたのは後の昭和19年(1944年)4月、実際に徴兵が適用されるようになったのは同年9月以降のことである。

 即ち、日本は欧米列強と比べても、「植民地人の軍事利用」には概して消極的であった。イギリス軍は東南アジアの戦線において、インド人兵士やグルカ兵(ネパールの山岳民族)を最も危険な最前線に投入して戦局を組み立てたが、日本軍はそのような体制は構築しなかった。

 昭和18年10月、鹿児島県の南部に位置する大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所に入校した光山は、この地で航空兵としての基礎的な訓練課程へと入った。

 そんな彼が、休みの日曜日になると頻繁に訪れるようになったのが近隣の「富屋食堂」であった。知覧駅からほど近い商店街に面して建つ富屋食堂は、昭和4年(1929年)に女主人・鳥濱トメが開いた店である。知覧分教所の開校は昭和16年(1941年)12月だが、同店は翌昭和17年(1942年)1月以降、陸軍の指定食堂となった。うどんや蕎麦といった麺類の他、各種丼物やカレーライスが人気で、夏にはかき氷も好評だったという。

 光山はトメを実母のように慕った。普段はもの静かな照れ屋で、一人でいることの多かった光山だが、トメとはとりわけ親しくなった。

 光山はトメと出逢ってまだ間もない時期に、自分が朝鮮人であるという事実を告げたという。当時の日本国内において、朝鮮人を不当に蔑視する愚人がいたことは、否定し難き事実である。そんな背景を知悉していたトメは、光山に対して殊に気を使って接した。光山は食堂の裏手にある離れの座敷で過ごすことを好んだ。

 トメの夫・義勇は南薩鉄道のバスの運転手だったが、二人の間には長女の美阿子、次女の節子という二人の娘があった。当時、美阿子は17歳、次女の節子は13歳だった。光山はこの二人とも程なくして仲良くなり、共に連れ立って近くの麓川の土手などをよく散歩した。光山には妹が一人いたが、トメの娘たちの姿に実妹の面影を重ねていたのかもしれない。

 そんな光山だったが、昭和19年(1944年)7月、栃木県宇都宮市の教育隊へと転属。トメたちとも別れることとなった。その後、光山は茨城県の鉾田基地へと移動。そんな転々とした営為の中でも、光山はしばしばトメに、

 「知覧のおばちゃん、元気ですか」 などと綴った葉書を寄せた。

特攻隊への志願


 昭和19年10月、光山は陸軍少尉を拝命。順調な昇進だったが、翌11月、そんな彼を思わぬ不幸が襲った。京都にいた母親が逝去したのである。死に目にも会えなかったが、父親から伝えられた母の遺言は、

 「文博はもうお国に捧げた体だから、十分にご奉公するように」 という内容のものだった。

 やがて、父もまた同じ気持ちであることを知った光山は、特攻を志願。折から海軍が始めた特攻に、陸軍が続いた時期であった。周囲の戦友たちも、次々と特攻を志願していた。

 上官の一人は、光山が朝鮮出身であることから、その覚悟の有無を改めて彼に確認した。しかし、光山の決意は固かった。上官は光山の強い意志に心を動かされた。こうして光山の特別攻撃隊への配属が決定した。

 昭和20年(1945年)3月、光山は一旦、三重県の明野教導飛行師団に転属。同月29日、明野教導飛行師団の主導により、14個隊もの特別攻撃隊が編成された。その内の一つである第51振武隊の隊員の中に、光山の名前はあった。隊長は荒木春雄少尉、総員12名である。

 第51振武隊は山口県の防府飛行場を経て、知覧飛行場へと前進。光山はこうして再び知覧の地を踏むこととなった。当時の知覧はすでに「特攻基地」と化していた。

 光山は最初の外出日に早速、懐かしき富屋食堂を訪れた。

 「おばちゃーん」

 店の引き戸を開けて入ってきた光山の姿に、トメが驚く。

 「まあ、光山さんじゃないの」

 トメは温かく彼を迎えた。光山の相貌は以前よりも逞しくなっているように見えた。そして、トメはすぐに光山が特攻隊員であるという事実を悟った。何故なら、この時期に知覧に戻って来るのは、特攻隊員ばかりだったからである。トメの推察と不安は、光山から発せられた次の言葉によって裏付けられた。

 「今度は俺、特攻隊員なんだ。だから、あんまり長くいられないよ」

 約半年前に実母を亡くした光山にとって、トメの存在はより大きなものとして感じられたであろう。

 久しぶりとなるお気に入りの「離れ」に通された光山は、そこで大きく伸びをして寝転がったという。

 以降、光山は富屋食堂に毎日のように顔を出した。特攻隊員の外出は、せめてもの温情として、かなり自由に認められていた。

アリランの歌


 光山は父と妹を朝鮮に帰郷させた。戦況の悪化を知り及んだ光山が、朝鮮の方が安全だろうと判断して促した結果であった。

 そんな光山にも、確実に出撃の日が迫る。

 いよいよ迎えた出撃前夜の5月10日、光山はやはり富屋食堂の「離れ」にいた。光山はトメと彼女の娘たちを前にして、こう口を開いた。

「おばちゃん、いよいよ明日、出撃なんだ」

 光山が心中を吐露する。

「長い間、いろいろありがとう。おばちゃんのようないい人は見たことがないよ。俺、ここにいると朝鮮人っていうことを忘れそうになるんだ。でも、俺は朝鮮人なんだ。長い間、本当に親身になって世話してもらってありがとう。実の親も及ばないほどだった」

 光山の着ている飛行服には、幾つかの小さな手作りの人形がぶら下がっていた。それらは、トメや娘たちが彼に贈ったものだった。トメが造った人形は、頭部が大き過ぎて「てるてる坊主」のようだったが、光山はこれを殊に大切にしていたという。

 トメが目頭を押えながら俯いていると、光山が、「おばちゃん、歌を唄ってもいいかなと切り出した。トメは思わずこう答えた。

「まあ、光山さん、あんたが唄うの」

 トメには光山の言葉が意外だった。それまでの光山は、他の隊員たちが大声で軍歌などを唄っている時でも、一緒に声を合わせるようなことは殆どなかったのである。

「おばちゃん、今夜は唄いたいんだ。唄ってもいいかい」

「いいわよ、どうぞ、どうぞ」

 薄暗い座敷の中で、光山が言う。

「じゃ、俺の国の歌を唄うからな」

 光山は床柱を背にしてあぐらをかいて座り、両目を庇の下に隠すようにして戦闘帽を目深に被り直した。

 トメと二人の娘は、正座をして光山が唄い出すのを待った。光山はしばらく目を閉じていたが、やがて室内に大きな歌声が響き始めた。それは、朝鮮の民謡である「アリラン」であった。
 アリラン アリラン アラリヨ

 アリラン峠を越えて行く

 私を捨てて行かれる方は

 十里も行けず足が痛む

 アリラン アリラン アラリヨ

 アリラン峠を越えて行く

 晴々とした空には星も多く

 我々の胸には夢も多い
 彼の声の震えや鼓動、胸中に灯った心模様を想う。哀調を帯びたその節回しが意味する歴史の重層性を、我々は真に理解できるだろうか。

 この歌を知っていたトメは、光山と一緒になって声を揃えた。トメと娘たちは、嗚咽しながら大粒の涙を流した。最後には4人、肩を抱き合うようにして泣いた。

 それから、光山は形見として、トメに自らの財布を手渡した。

「おばちゃん、飛行兵って何も持っていないんだよ。だから形見といっても、あげるものは何にもないんだけど、よかったら、これ、形見だと思って取っておいてくれるかなあ」

 その夜の別れ際、トメは自分と娘たちが写った写真を、「これ、持ってって」と差し出した。

光山は、「そうかい、おばちゃん、ありがとう。みんなと一緒に出撃して行けるなんて、こんなに嬉しいことはないよ」と言い残し、灯火管制のために暗い夜道を、手を振りながら去って行ったという。

 翌11日、第七次航空総攻撃の実施により、光山は午前6時33分、爆装した一式戦闘機「隼」に搭乗。知覧飛行場の滑走路から勢いよく出撃した。

 光山の搭乗機は、陸軍計12隊29機、海軍計11隊69機と共に、沖縄近海を目指した。

 やがて、航行する敵艦船群を確認した編隊は、特攻作戦を開始。結句、アメリカの空母1隻、駆逐艦2隻を「戦列復帰不能」とした上、オランダ商船1隻に損傷を与えた。しかし、轟沈した艦船は1隻もなかった。

 この戦闘において、光山も散華。享年24である。

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