岩手県での痛ましい自死に関する、フジテレビの元アナウンサー・長谷川豊さんのブログでの意見に、「怖さ」を感じた。激しい違和感を憶え、どうしても同意できない。
一つ目に、「本当にいじめか?」という点です。
「からかい」「集団無視」など、現在は「いじめだ」と認識されているものは多々あります。それらは価値観によりますが、私はその程度のものを「イジメ」だとは認識しません。中には「イジメられた側がイジメだと言えば全部イジメです」というもはや何を言ってるのか分からない範囲の暴言も見受けられるのですが
A君という人間がいたとして
そのA君は話しかけてもネガティブなことしか言わない
イジワルな反応しかしない
やる気もない
思いやりもない
会話は自分の興味ある話しかしない
みんなの会話の流れも全部止めてしまう
そんなA君といったい誰が積極的に話をしようとするでしょうか?しかし、もともとネガティブなA君。A君は担任に言うでしょう。「先生、みんなが俺を無視するんだよ。イジメを俺は受けているんだよ!」
断じて違います。それはA君自身の問題なのです。みんなは積極的にイジメようと思ってなんかいません。はっきり言って会話に混ぜたら迷惑だから会話しないようにしているんです。それを「イジメ」というのは暴論以外何ものでもありません。「正常な反応」というのです。
出典:岩手の自殺をただ「イジメ」と報じるのは違う
古くからよくある「いじめられる方にも責任がある」という意見だ。責任ある社会人はこういう発言はすべきではない。
筆者の意見を要約すると以下の流れとなる。
「A君自身の問題」=「いじめ(こう呼ぶかどうかは別として)られるのは無理もない。」=「自殺した人間も、非難されるべきです。」
自死を選択をせざるを得なかった者の立場には全く立っていない。
人は社会の中で周囲の者たちに囲まれてしか生きられない。なぜ自死を選択せざるを得なかったのか?何が自死へと追い詰めたのか?特定の「誰か」に直接殺されたわけではなかったとしても、「周囲の空気」(社会的な同調圧力)などに追い詰められ可能性はある。自死を選択せざるを得なかった者の個人の内面的要因(性格や態度など)に、自死の責任を全て押し付けてはいけない。
何よりも、こうした「本人の責任」を過度に強調するような社会や周囲の空気自体が、弱い立場の者に対してさらなる閉塞感や同調圧力を生み出す。新たに自死を選択する者を出しかねない。この点については断固反論したい。
長谷川さんが想定する、下記のような性格の特徴をもった者が実際にいたとする。
そのA君は話しかけてもネガティブなことしか言わない
イジワルな反応しかしない
やる気もない
思いやりもない
会話は自分の興味ある話しかしない
みんなの会話の流れも全部止めてしまう
「変わり者」かもしれない。人を不快にするかもしれない。何らかの精神疾患や発達障害のある子どもかもしれない。あるいは、単にそういう印象を周囲に持たれがちな、誤解されやすい性格かもしれない。「そういう人」が「そういう人」として自死を選択せず生きていけることが何より大切だ。
「こうした性格は、本人の問題だから、これは、いじめではない」そんなことでいいのだろうか?
「そういう人」であっても自死を選択させない「寛容なる無関心さ」を持つ社会であるべきだ。「そういう人」をも「そういう人」として包摂する社会であって欲しい。自死したもの自身の責任に「一般論」として集約しないで欲しい。自死を選択した者だけの責任ではない。
また、下記の意見についても、私は子どもを持つ親として反論したい。
岩手の事件では、みんなの見ている前で集団による「暴行」が行われたという証言があります。暴行を加えた生徒たちは「警察に逮捕させるべき」なのであり、そうでなければ警察の存在意義がないのです。
また、忘れてはいけないのは「暴行を周囲で見ていた」人間たち。これらは「暴行罪の補助」に該当する可能性があります。全員、逮捕・起訴したうえで、少年院に送致すべき事案です。その為に「刑法」という法律が存在するのです。なのに、これらを日本の学校関係者は、
警察に通報もせずに「自分たち」で処理しようとするのです。明確な「犯罪の隠蔽」行為です。
出典:岩手の自殺をただ「イジメ」と報じるのは違う
結果として、早く警察に通報しておけば助かったかもしれないという可能性は否定は来ない。しかし、その点をもって「なぜ、親や学校は、すぐ警察に通報して逮捕させなかったのか?」という「後出しジャンケン」のような正論を吐くのは間違っている。
自分の子ども(あるいは生徒)が、殴られる、蹴られるようなことがあった場合、私はすぐには警察に通報しない。まず学校(教師)に連絡する。結果的に警察に通報していれば、命が助かったかもしれないというのは、後出しジャンケンとしてごもっともである。しかし、警察に通報しなかったという、そのことをもって、「一般論として」親や学校の責任を問うのは違う。子どもや生徒に「暴力」があれば、何でもかんでも、親や教師は警察に通報して、暴力事件として扱えというのであれば、あまりに現実場馴れしている。そういうことを言いたいのか?
学校は警察ではない。手に負えない場合は警察に通報する。しかし、同時に警察は学校ではない。教育の場ではない。その境界線の判断は難しい。でもそれを行っていかなくてはいけないのが教師であり親である。個々の具体的な案件に応じて対応するべきである。いくら言論の場とはいえ、何でもかんでも一般論として論じるのは、あまりに議論が浅い。
リンク先を見る 片岡英彦戦略PRプロデューサー/コラムニスト/企画家
京都大学卒業後、日本テレビで、報道記者、宣伝プロデューサーを務めた後、アップルのコミュニケーションマネージャー、MTV広報部長、日本マクドナルド・マーケティングPR部長、ミクシィのエグゼクティブ・プロデューサーを経て、2011年、片岡英彦事務所(現:株式会社東京片岡英彦事務所)設立。企業のマーケティング支援の他「日本を明るくする」プロジェクトに参加。同年フランス・パリに本部を持つ国際NGO「世界の医療団」の広報責任者就任。2013年、一般社団法人日本アドボカシー協会を設立。戦略PR、アドボカシーマーケティング、新規事業企画が専門。東北芸術工科大学 広報部長/企画構想学科 准教授。
※Yahoo!ニュースからの転載