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スポーツとの距離感と自我の関係

約1か月ぶりにNYに戻ってきました。この1か月は出張続きでほとんどNYにいませんでした。。。

さて、なでしこジャパン、準優勝は素晴らしい結果だったと思います。最後の試合まで残ることができたわけですから。今大会を見ていて、スポーツ(ウー?)マンシップに関する報道がちらほら出ていて個人的には気になりました。

川澄、豪州選手たち敗戦後の姿勢を称える スポーツウーマンシップ溢れる彼女たち

これ、僕もレベルは全然違いますけど、経験あります。僕もNYでフラッグフットのチームを日本人で組んで、地元の大会に出場しています(相手はもちろんアメリカ人です)。かれこれ8年位プレーしていますが、プレーオフの厳しい試合の後でも、アメリカ人は試合後は割とさっぱりしていて、「good game」(相手が勝った場合)、「good luck」(相手が負けた場合)などと言って来ます。

僕はもともと大学の体育会でアメフトをやっていた人間ですから、負けるのはやはり嫌いです。当時は、自分の全人格を賭けてフットボールしてましたから、「勝負が全て」という感じで、試合に負けると全人格が否定されたような感覚に陥り、しばらく日常生活が手につかなくなったのを覚えています。

まあ、今は遊びですから、そこまでではないですが。ただ、当時の感覚を覚えている人間として、アメリカ人のスポーツとの距離感は、最初は非常に鮮烈に映ったんですね。これは、プロのレベルでも結構似ていて、こちらの選手は大舞台で負けても、試合後のインタビューで平気な顔をして記者からの厳しい質問に答えるんですよね。日本だと、似たような状況では会見拒否も少なくないようですけど。

で、最初はこの違いは教育の違いだと思いました。競技軸が強い日本では(競技軸の話は過去にもいろいろと書きましたが)、選手は「フィールド以上でプレーすることだけが自分の仕事」という意識が比較的強いですが、アメリカでは「競技する以外(プレス対応や地域活動等)も選手の仕事」という教育を受けます。

しかし、日本でも最近は選手教育も球団によっては力を入れて来ていますし、どうもそれだけではこの違いは説明がつかないなぁと感じていました。で、もう少し考えを深めていて、どうも自我の在り方自体に違いがあるのではないかという仮説を持つようになりました。

以前、「社会において集団と個人のどちらを優先するか」でも書きましたが、日本人は「個人の都合」よりも「全体の都合」(場の調和)に配慮した意思決定を行います。相手に配慮しながら意思決定を続ける中で、日本人の自我(自分と他人の境界)は曖昧で、他人に対して開かれています。そのため、時に自分と他者(対象)が同一化してしまうこともあるようです(日本人と欧米人の自我の違いの話は河合隼雄氏の著作を読むといっぱい出て来ます)。

つまり、スポーツ競技において極限状態に置かれると、選手と競技が一体化してしまい、うまく競技や試合を客体化して捉えることができなくなるのです。これに対して、欧米人の自我は明確で、他人に対して閉ざされています。そのため、悔しい負け方をしても、比較的冷静に過去を客体化して振り返ることができるのではないかと感じます。

これはあくまでも程度問題であって、良し悪しではありませんが、こうした自我の在り方がスポーツとの距離感に大きな影響を与えている様に思います。

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