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球団事務所のゴミ箱に捨てたトライアウトの書類 関屋智義(横浜ベイスターズ→福岡ダイエーホークス) - 高森勇旗 (元プロ野球選手)

「明日、8時半に寮の応接室に来てくれないか?」

 電話の向こうの2軍マネージャーは、特に内容を明かすことなく、電話を切った。「寮の食事のことに関して、球団と話し合いをするのだろう」。

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関屋智義(Tomoyoshi Sekiya)
横浜ベイスターズ、福岡ダイエーホークス1979年愛知県名古屋市生まれ。愛知高校から97年ドラフト3位で投手として横浜ベイスターズに入団。2002年戦力外通告を受けて、福岡ダイエーホークスに入団。03年再び戦力外通告を受けて引退。自動車ディーラー、芸能プロダクション等を経て、伝導機器メーカーのニッセイに勤務。二児の父。 (写真:小平尚典)


 当時、寮長を務めていた関屋は、以前から寮の「冷えたご飯」の改善について、球団に要望を出していた。その話だろう、特に気にも留めず、同僚と食事に出かけた。

 翌朝8時半、関屋は寮の応接室のドアを開けた。そこには入団会見のときに一度だけ見たことのある、かろうじて名前だけは知っている球団職員が座っていた。

 ─戦力外通告だった。

 関屋智義。愛知高等学校から、1997年に横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)からドラフト3位指名を受けて入団。将来の主力投手として当時の権藤博監督に期待され、3年目にはオープン戦の開幕投手を務めた。しかし、度重なる怪我により本来の力を発揮できず、2002年の9月、野手に転向。それからわずか1カ月。野手として本格的に始動していこうと意気込んでいた矢先の、「クビ」であった。

 「頭が真っ白になった。本当に突然だったし、意味がわからなかった」

 受け入れたくない現実。だが、受け入れる以外に選択肢はない。関屋は複数球団の入団テストを受け、福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)でプレーすることが決まった。23歳と若く、野手転向後すぐクビになったということに配慮し、当時横浜ベイスターズの2軍監督であった日野茂が、ダイエーとの間に入ってくれた。

 採ってくれた球団に恩を返したいという思いを胸に、関屋は朝から晩まで泥にまみれた。その甲斐あって、徐々に試合に出られるようになる。8月の対広島東洋カープ戦、関屋はスタメンに名を連ね、野手転向後初めて3安打、猛打賞を放つ。2塁ランナーだった関屋は、次打者のヒットでホームを狙う。関屋の視界には、高くそれたボールを取りに行くキャッチャーが見えていた。ホームに滑り込む関屋の右足に、キャッチャーが上から乗りかかった。

 「グシャッ」

関屋の選手生命を奪う音が、球場中に響き渡った。関屋には、滑り込む瞬間からの景色が「スローモーション」で見えていた。前十字靭帯、後十字靭帯、内側側副靭帯断裂。回復を待ったが、10月、再び電話が鳴った。

 「球団事務所へ来てくれ」

 入団して1年も経っていない関屋は、「初対面」の球団職員から、人生二度目の戦力外通告を受けた。合同トライアウトの説明書類を受け取り、あと1カ月で完治するはずのない膝を見ながら、関屋は思った。

 「この人は、俺が怪我をしていることすら知らないんだな」

 合同トライアウトの書類を球団事務所のゴミ箱に捨て、関屋は実家のある愛知県へ戻った。

馴染めなかった野球以外の仕事

 セカンドキャリアが始まる。意外に思われる方が多いかもしれないが、戦力外通告を受けたプロ野球選手の就職先は比較的容易に見付かる。礼儀正しさ、体力、話題性など、採用する側にとって、魅力が多いからだ。

 しかし、野球に人生を懸けてきたプロ野球選手は、どの仕事を選んでよいのかわからない。とりあえず就職するが馴染めずに辞める、というパターンを繰り返すことが多い。

 関屋は親から、「専門学校などへ行ったらどうだ」と勧められるも、聞く耳をもたなかった。「一日も早く世の中に出て働きたい。野球以外でもやっていけるということを証明したい」。

 東京にいる先輩の家に転がり込み、2週間ほどそば屋で皿洗いのバイトをしながら職を探した。次々に流れてくる皿を必死に洗いながら、「働くって、キツイな。野球をやっていた頃は幸せだった」と感じていた。バイトをすること自体も初めてであった。ぎこちない日々の中、先輩の紹介により大手自動車メーカーの営業として職に就くことになる。

 職場は東京の大塚、業務は主に飛び込み営業だった。玄関先でチャイムを鳴らし、初対面の相手と話をする。ただでさえ大きな体に、これまで営業トークなどしたこともない関屋は、相手を萎縮させ、話を聞いてもらえなかった。営業マンとしての成績を出すことができない日々。そして、プロ野球選手時代に染み付いた金銭感覚も、簡単には戻らなかった。

「事務所のある大塚から、毎日のようにタクシーで池袋にパチンコしに行っていました。勝ったら焼肉、負けたら弁当。もう、先が全く見えなかった」

 元々クルマは好きだったが、「好き」と「売る」は別物だということに気付かされた。「このままではダメだ」と決意し、1年でこの仕事を辞める。

 翌年、兄の紹介により芸能事務所で働くことになった関屋は、誰もが知っている大物女優のマネージャーとして活躍する。体育会系で礼儀も正しく、体力もある関屋は、芸能界という特殊な世界で様々な人に可愛がられた。毎日が違う現場、違う仕事。関屋は充実した日々を送っていた。

 「様々な経験をしたし、何より面白かった。大事にもしてもらえた。でも、だんだんと、自分がマネージャーというより付き人だという感覚になってきた。“働いている”という感覚がなくなってきた」

 そんなことを考えていたとき、実家の父親が体調を崩した。関屋は愛知県に帰ることを決めた。当時27歳。関屋は知り合いの草野球チームにゲストとして出場した。3年ぶりにグローブをはめ、思い切りバットを振った感触は、関屋に再び野球への情熱を呼び起こした。「仕事はなんでもいいから、もう一度、野球がやりたい」。

 高校の先輩の紹介により、軟式野球部のある大手運送会社に転職が決まった。志半ばにして絶たれた野球への想いを取り戻すように、練習にのめり込んだ。翌年、同じく軟式野球部をもつ製造業の会社に転職する。

 「野球をやれるうちに、やろうと思って。もっと本気で、日本一になれるチームでやりたかった」

 関屋はこのチームで国体の2連覇に大きく貢献した。

 12年、34歳のとき、関屋は自らの意思で野球を辞めた。他人から強制されたものではなく、初めて自らが決めた「引退」であった。「会社の始業時間は8時半ですが、いつも6時半に出社し、準備をしています」。戦力外通告後、仕事との向き合い方に苦労した関屋であったが、今は清々しい気持ちで仕事に打ち込むことができている。

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