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都知事選において他候補は一度も土俵に上がらずに終わった

 そして、あの不朽の名言を心に留めておく─誰が選ばれようとも、その人間は、我我が求め得るたった一人の大統領なのだ─。
 かわいそうな、私たち。
(「ジャーナリストはなぜ疑り深いか」ロジャー・サイモン/横山和子訳/中公文庫)

 
これはロナルド・レーガンに対して向けられた言葉である。

今回の都知事選において、「他に選択肢が無かった」として石原氏へ投じた人も含めて、この言葉は少なくない人の心理を代弁する言葉の一つであろうと考える。
 
そして、ロジャーはレーガンについての皮肉めいたコラムを書いた後、レーガンのスタッフから以下のようにからかわれることになる。
 そのことをコラムに書くと、二、三日後、レーガンのスタッフにからかわれた。
「気分を害したのですが」と、私が尋ねると、「いいや」と、彼は答えた。「大した事じゃないよ。いずれ、良い記者を必要としない初の大統領が誕生するというわけだ。あの男は、腹の中を、率直に大衆にぶちまける。彼らはあの男を愛しているよ」
「君やCBS、あるいは『ニューヨーク・タイムズ』が何と言おうと、痛くもかゆくもない」
 結果から見ると、彼の言ったとおりだった。正に今、レーガンのへまや矛盾、事実の誤認を並べ立てた本が山と出ている。が、気にする人がいるだろうか。怪しいものだ、と私は思う。彼があまりにも多くの人を掴んでしまった今となっては、そんな本など問題にもならないだろう。

(前掲書)

どこか石原氏に対する状況と似ていなくはないだろうか。もっとも、石原氏がそこまで「多くの人を掴んでしまった」とは考えづらいが。
また、以下の内容も、決して外れているとは考え難いものがある。
レーガンは、そもそも何が人の関心を自分に向け、政権を取るに到らせたかを、決して忘れない。ハリウッドの過去を、決して忘れない。パフォーマンスの威力を、ロマンの力を、忘れることはない。

 少なくとも、石原氏の数々の失言・暴言や新銀行東京、築地移転に関する問題、東京五輪招致での散財(散財はこれに限ったものではないが)、それらの問題は多くの場合新聞でも触れられ、ニュースにもなっているものであり、ウェブに疎い中高齢者にとっても決して知らぬ話ではなかったはずだ。それにも関わらず、今回の得票数を稼ぎ出している、ということは「危機時の体制転換リスクを望まない」という消極的現状維持を考慮しても、多すぎるのであり、結局それらは「それほど問題視されなかった」という結論を出すことはできよう。

加えて、原発の問題にしても、その失言・暴言がそれほど問題視されなかったのは、現状において東京都という存在そのものが電力喪失による「被害」を蒙っているのであり、それはまた「震災」の関連ではあり、“その点では”被災者でもある(東北・北関東・千葉のそれを比較するには、生活の有り様として軽微ではあるが)。

そして、原発の推進が「国策」として推進されてきたことに加え、原発立地が「他県」であり「立地自治体として停止・撤去を求める」ような直接的効力は都知事が反対したところで見込みづらいという現実に加え、電力そのものの喪失・抑制が覿面にマイナス効果を発揮する地域でもあり、さらに「東電」という私企業と「政府」という国政の問題がクローズアップされた結果、「都知事」に対して何を求めるか、という点は「短期的には原発の即時停止は限りなく不可能に近い」ということもあり、都知事選の争点としては実はそれほど高い項目とならなかった可能性が高い(原発立地県の自治体ですら現職が軒並み勝っている現状を考えれば、この可能性は一定の蓋然性を持つのではないだろうか)。

この点を考えれば、石原氏の出馬表明後に一旦は出馬見送りを検討しながら「天罰」発言と原発推進発言を受けて出馬を表明した東国原氏は完全に「甘かった」と言えよう。斯様な失言で大きく票を減らすようであれば過去の都知事選でも相当の苦戦ないし落選していたはずであり、原発そのものの是非というのは「長期的にはいざ知らず、1年単位の短期的タイムスパンでは当面は安全対策の強化と代替技術への投資くらいしか打つ手がない」という性質のものでもあり、そもそもそこを争点に据えたこと自体がそもそも今回の「目先の対策(今夏の電力や避難被災者の支援、救援物資の収集・送付、都内の震災対策・基準見直し等)をどうするか」のような極めて近視眼的対応が重視されている状況においては誤っていたのではないか、とさえ考える。少なくとも原発が短期対応ではなく長期的国策レベルの話であることは、その原発の是非を問う論調そのものからも分かる話であり、都民は原発だけで判断するには都の抱える問題は多岐なのだ、ということは考慮して良いだろう。

今回の震災を最大限に「パフォーマンス」に生かしたのもまた石原氏で、現職の強味はあれど、消防隊への激励や福島県産の農作物の引き受け、告示後の25日に被災地入りし、5日には被害が激しい気仙沼入りするなど、どれもこれも「民主党政府が失点を重ねて批判に晒されている点」に焦点を当てた行動が多い。

民主党政府の震災対応がその不手際から(半ばどの政権であっても同様の結果だろう判断も含めて)批判が高まる流れの中での統一地方選でもあり、知事の行動は「事実関係を報道する」だけでも十分に石原氏の印象へ加点するだけの効果はあっただろう。

都知事選の公示期間中、他候補の動向がほとんど報じられないに等しいほど報道量が少なかったこともあり、これは大きなアドバンテージとなっただろう。民主党政府が統一地方選そのものの延期に踏み切らなかったことは極めて謎である。

逆に、徹頭徹尾石原氏は「民主党政府の震災対応」と対峙していたのであり(少なくともそう見せていたのであり)、他の候補など眼中に無ければ端から相手にもしていなかった、とは言えよう。他候補は最初から土俵にあがってさえいない状況のまま推移したのであり、議論以前の問題である。

石原氏のパフォーマンスは総じてこの種の「主たる相手と正対せず、総論としては反論しづらい論拠を持って最大の成果を上げる」類のものが多い。 
青少年保護条例の改正案についても、「凶悪な青少年犯罪」と「性犯罪被害者としての青少年」がフォーカスされたわけだが、この際に「実際の犯罪発生率」は対して関係がない。

メディアの報道は凶悪な青少年犯罪は「恐怖」であり(これは煽るだけで良い)、性犯罪被害者は「ツールのもたらす悲劇」であり(そもそも携帯が無かろうがこの種の犯罪は発生していたのであり)、青少年犯罪自体が「ショー」として消費されている現状がある。

加えて、本来であれば高齢化の進展に伴いもっとも憂慮されるはずの「痴呆」や「孤立」による犯罪などは、メディアではあまり報じられない。センセーショナルが足りない、とでも言うべきだろうか。痴呆であれば痴呆対策や介護となり、老老介護に伴う殺人など、悲劇であり「恐怖」ではなく、要するに「犯罪」としての側面がどうしても背後に隠れていく傾向がある。

従って、相対的インプレッションが高い青少年犯罪報道というものが、過剰に「増加している」という印象を与えたとしても何等不思議ではなく、それに対して石原氏がパフォーマンスによってそのキャストとなっているに過ぎないのである。これは、逆説的に言えば日常報道そのものが石原氏の支持を一定程度維持する効果を発揮していると言える。舞台は勝手に用意されているのであり、石原氏はその舞台に「乗る」だけで良い。

石原氏の財政再建というのは都役人の筋書きもあろうが福祉の切り捨てによって成り立っている部分が多々あるわけで、そこは小池氏の指摘は正しい。が、一方で財政再建を必要とするまでに悪化する要因の一つが美濃部都政の福祉・公務員政策でもあり、また「自分の福祉」よりも「子・孫の安全」と「自身の安全」を考えれば、実は福祉予算を削って「青少年犯罪対策」へ投資する、という(実際の効果は無くともパフォーマンスとしては筋が通る部分もある)選択さえ有り得る。いかにそれが選別され、恣意的見解であったとしても、新聞などへの青少年犯罪への投書は概ね「怖い」「どうにかしなければ」であろう。決して「青少年犯罪は増えていない。極一部の特殊事例であり、高齢者の徘徊・痴呆や感情抑制の劣化による衝動的犯罪の方が日常では怖い可能性がある」などという見解は「載らない」のだ。その点はテレビも新聞も主たる顧客が「中高齢者」である以上、そうならざるを得ない点があり、ジャーナリズムなどはビジネスの後衛でごくたまに前線に出てくる程度のものなのである。

これは短期的政策と長期的対策の履き違えから、本質を見ず目先の「見えるものをなんとかしろ」という近視眼的判断まで、様々な要因に絡むものではあるが、少なくとも日常の犯罪報道などのメディア報道が直接に東京都や石原氏に関係なくとも、石原氏の支持を維持する方向で作用している可能性は否定できないだろう。

もしこの可能性が正しい方向での仮説であるならば、そもそも公示期間の2週間程度で対抗馬が何らかの主張により石原氏を蹴落とそうなどという行為そのものが、「そんな単純かつ安易かつ省労力でどうにかなるものか」という疑問を突き付けざるを得ない行為でしかなくなる。余程のものが無ければ無理だろう。

そしてそのような情報により判断を下した都民が必ずしも「愚民」という呼称に値するかどうかは甚だ疑問がある。総じて他の知事選も似たようなものであり(橋下氏や河村氏等)、国政においてすら民主党に政権を与えたように、同様の近視眼的判断と錯誤とパフォーマンスによる本質からの乖離によって為されているのだから、都民だけを論うのは問題だろう。増して原発の問題は固定資産税等の問題から一定期間を過ぎると一度設置した自治体が増設を求める傾向が強く、それは果たして「都市部」の問題“だけ”なのか、という点への疑問も為されるべきだろうし、やはりそれを考えればこの構造的問題をどうにかするのは国政レベルの課題である、と。

渡邉氏は果たして本気で都知事をやるつもりがあったのか怪しいものがあるし、小池氏は結局従来の共産系左派の枠を一歩も出ることができなかったという点で敗退は自明であり、もっとも都知事に近い位置にいたのは東国原氏であったろうが、本来であれば可能な限り早く出馬を決め、メディアに出続け政策を主張しパフォーマンスを続け、石原氏を自身の土俵に引きおろさねばならなかったにも関わらず、ギリギリまで出馬を決断できず、挙句に石原氏の動向で判断を誤るなど、この局面でもっとも必要であろう決断力に欠け、政治センスの欠落を露呈した。石原氏が対抗馬を対抗馬として相手にせず、専ら政府との対決姿勢、その差異の鮮明化を選挙活動として行った(同時に都の方針として行った)。少なくとも次の都知事選にも出るつもりがあるか、または別の候補を擁立する意思のある政党があるならば、そのことに対していい加減真剣に考慮し、対策を練る必要があるだろう。そもそも次がいつ行われるか分かっている都知事選に対して、候補を擁立するしないで直前までバタバタ揉め、挙句に擁立できない、といった迷走をしていること自体が政党として問題だろう。メディアにも問題はあるが、それはメディアが石原氏の存続を意図して行っているわけではない点で別の視点での批判はなされるべきだろうが、政党は確実に直接的批判に晒されるべきだろう。一番情けないのは迷走した挙句に石原氏を担がざるを得なかった自民党でもあろうが、それによって繋がったのが「幹事長」としての石原のぶてるの首では情け無いにも程がある。もっともこれは事実不明瞭なところはあるが。

そして、そのような情け無い政党群を維持し、抱えてきたのは他ならぬ有権者自身なのだが、多くの場合、今回の予期された勝利(?)を次善の策として支持する自民・公明支持者も、泣き言を言う民主支持者も、愚痴と怨嗟に終始する共産支持者も、快哉を以って迎えるたちあがれ日本支持者も(いるかどうかは知らんが)、どれもこれも一体今回の都知事選が何を争点に争われ、何が勝因で何が敗因だったのか真剣に考えているのか怪しいものがある。間違いなく言えるのは、今回の都知事選は原発の是非が争点では“無かった”ということだ。

石原氏の四選をもって原発推進が支持された訳でもなければ、仮に石原氏を落としたところでそれが原発否定になった訳でもないだろう。別に原発が争点にならねば「ならなかった」、というのであればそれは否定はしないが、それでは石原氏を蹴落とすことはできないだろう、とは言えるはずだ。

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