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- 2010年11月07日 01:02
インテリジェンス無き政府とその問題
インテリジェンスの欠落
リンク先を見るオペレーショナル・インテリジェンス―意思決定のための作戦情報理論
今回は同書から。
■決断と判断
今回の尖閣諸島における海保艦艇への漁船の攻撃的妨害行為(以下本件)において、政府はまず「国内法に基づき処理する」、次いで「映像の公表をしない」ことを決めました。
この段階で、少なくとも「早期釈放はしない」ことを意味し、それは「中国を刺激する」ことを意味したはずです。船長への接見は認めていた事実からして、中国サイドも事実関係は容易に想像がついたはずであり(それと政治的姿勢とは無関係ではある)、「映像を公表しない」ことは「事実関係を明らかにすることは中国の国際的外交関係(特にアジア・太平洋方面での外交関係)において「さらなる警戒をもたらす」ことに対して、日本政府として「恩を売る」形にさえなったはずです。
従って、本来であれば上記決定の際、「どこまで中国の譲歩を引き出すか(落としどころをどこにするか)」が「考えねばならない」ことであり、「いつ決めるか」は「起訴までに(つまり拘留期限内)」ということになるはず、でした。
しかし、政府内部(与党内部も含め)は迷走を極め、そもそも「何を考えなければならないか」も「何をいつ決めるか」も決めないまま決定だけを先出しした感があります。この点でインテリジェンスにとって問題のある決定だったと言えるでしょう。
なぜこのようなことになったのか、と言えば、以下が原因となります。
ある決定に際し、
このうち、前者は常に「発言」はその内容を「自身で実行する責任を負うものとして行え」ということであり、同書においてスイス直接民主制がハプスブルグ家からの独立投票を行った際のことが引用されています。
つまり、「国内法により」と決めた時点で、少なくとも「不起訴処分」にするにしても、「国内法」の規定により行うことを「実行」するべきで、そうする「責任」を負うべきでした。地検から「対中関係を考慮し」云々の釈放方針が中央官庁に上がっていたそうですが、そこで「了解」してしまう大臣はこの原則に反します。つまり「無責任」なのです。
そして、なぜこうも無定見な迷走を見せたか、と言えば後者の「決められないことを決めるな」に反した決定を行っていたからに他なりません。これは普天間の問題や昨今の八ツ場ダムの問題にも通じる、この与党(菅政権に限らず鳩山政権以来)の問題と言えます。
■情報を知るべき人、知るべきではない人
本件において、第一報〜詳細に至るまで第一に知るべきは「首相」であり、情報を知る資格を持つ人とは「所轄官庁」「内閣府(内閣官房)」「外務省」「法務省」「防衛省」場合によっては「農水省」までの要職は含まれるかもしれません。
しかし、ここで「対応できる能力」「対応する責任・義務」について真っ先に疑問符が呈されるのは、本来内閣の広報官であるはずの(つまり要諦となるはずの)官房長官その人でした。
電話とは言え「釈放の意図」を安易に伝達し、しかも伝達した先は口が軽く信用のおけない野党議員でした。この点だけでも「対応する能力」が無いことは歴然としています。そもそも「国内法での処理」と決めたのは政府そのものであり、それを覆して「釈放」を了解したのも政府の所轄大臣であり、その後はある程度困難な舵取りになることは分っていたはずです。その「責任」を放擲するような行為を政府首脳が率先して行ったことは、そもそも「インテリジェンス」に対する理解の欠如と政治的責任能力の欠落を意味しています。こんな人材を官房に据え続けること自体、首相の政治的責任能力の欠如と言っても過言では無いでしょう。
■方針無き作戦の問題
同書において「作戦指導の基本姿勢」として
従来自民党政権が代々行ってきたのは「超法規的早期釈放」という「最大安全値案」でした。これは、中国が抗議をしようが国内的には解決済みとする対応であり、中国の面子を過度に傷つけない対応法でもありました。
今回政府が「国内法で」と決めたことは、「一か八か案」であり、それであればあるほど「失敗したときの対応」を決めておかねばならなかったにも関わらず、まるでそれを考慮していなかったばかりか、自身の決定が「一か八か案」であることさえ気付いていなかったことは、その後の対応を見れば明らかです。これは決定者として甚だ資質に欠くものと言えるでしょう。
同書においてロンメルが「失敗したときの対応策がある限り」「一か八か案」を採用した、と書いていますが、第一次アフリカ攻勢後の徹底した撤退振りからもそれは窺えます(イタリア軍は撤退のあまりの距離に泣き言を言ったそうです)。もっともチュニジア戦線での戦闘はあまりそのような傾向は見えないのですが、それは彼も人だから、なのでしょう(あまりに仲の悪い指揮官が同じ戦区にいたため、その作戦に徹底して反発した、という事情があります)。
■情報は価値(=商品)であることへの洞察
本件においては「映像証拠」がその「情報」にあたります。これは貴重な外交カードであり、裁判証拠資料でもあります。
従って、「非公開」とした以上、その取り扱いを徹底し管理するのは当然と言えます。
漏れ出た映像は海保編集のものと言われていますが、どうやら隊内での教習用に編集され、アクセスは相当に自由だったようです。
少なくとも政府が「非公開」とした以上、海保はその方針に沿って「外部に出ない」よう配慮すべきでしたし、政府としてもそう指示すべきでした。ただの違法操業の取り締まりではなく、「外交問題」になってしまっている問題である以上、それをしないこともまた問題となります。
本件に限らず、昨今検察やら公安やらからの情報の漏洩が頻発しているように見えますが、警察権を持った組織からの情報の漏洩は由々しき問題です。
今回の映像をアップロードした人間が「真実を見せてやるぜ」以上の意識は無かったと考えますが、それは故意ではないとしても、政府方針に反する行為であることは明らかで、増してそれが公務員の側から、となればそれは「情報を活用できる能力、知ることに対する責任と義務」が欠如していると言えるでしょう。
実際のところ映像の内容そのものは「非公開」にする理由は「対中カード」としての「政治的価値」しかなく、事実関係そのものは「報道されている通り」を裏付けるものでしかないわけで、一般に「リーク」すべき価値がある情報(例えば重大な違法行為を政府が隠している等)とは言い難いものがあります。
しかし、それであっても最早「公開しないことでしかカードになり得ない」情報である以上、「リーク」することはそのカードさえも失わせる行為でしかありません。それを政府の統制下にある組織の構成員が率先して覆したとあれば、いかにそれが義憤だろうが正義感の発露だろうが、許されません。「情報テロ」や「情報クーデター」などという言葉が出ていますが、本件の容疑者にそこまでの意図は無かったでしょう。結果として政府を揺さぶる行為になったとしても、重大性の意識は無かったように思えます。しかし、それであっても、特に警察権・軍事権を持つ現場が独断でそのような行為を行うことは政府に対する背信行為であり、その政府がいかに無能であり信頼に値しなかったとしても、それを行うことは「議会制民主主義」に対する挑戦とも言える行為です。同時にこのような漏洩を容易に許してしまっている政府自体、犯人の特定と経路の調査は必要ですが、それと共に「インテリジェンス」について真剣に考え直し、抜本的に意識を変革する必要があります。政府が決定したことを現場が覆すようなことが頻発すれば、そのような政府とどの国が約束事をするでしょうか。相手だって約束を守る気などなくなりますし、それを非難などできないでしょう。
■最後に
このように、本件は当初の事件発生(とその直後の決定)からその後の対応、政府主要閣僚と現場の意識の乖離など、首尾一貫して「インテリジェンス」に対する意識が欠落していると言える事例となります。
さて、上記の中で映像について「映像資料」とし、それを「情報」としましたが、インテリジェンスにおいて、未編集の一次情報は「情報資料」であり、「知識」となります。その「知識」を「目的に対して役立つか、合致しているか」の点で「評価・峻別」し、処理されたものが、初めて「情報=インテリジェンス」となります。
この点で、まったくの生情報では無く明らかに加工・編集された映像が漏洩したことで、これは単なる「情報管理」の問題に留まらず「インテリジェンス」の問題となるわけです。
そして、外交や安全保障といったカテゴリーにおいて、「インテリジェンス」概念無き政治というものは、最早その時点でまともに「機能さえできない」ものでしかありません。単に公開すれば、非公開にすれば良いというものではないのです。
■蛇足
ちなみに、やや語弊がある言い方をすれば、今回の影像に対してそれぞれが所見を加えてBlogやメディア報道に載せることは、その行為自体が「漏洩した影像資料」という「一次情報」に対して、評価・峻別を行った「インテリジェンス」と言えるかもしれません(厳密な定義とは異なります)。
そして、その「インテリジェンス」を「受け手」に発信することそのものが、「発言」として「責任と義務」を伴う行為であると言えるでしょう。
そして、それを投げかけられた読者・視聴者は、今度はその「インテリジェンス」を基に、「決断と判断」を行うことになります。そして、その「決断と判断」がどう成されるか、についての「情報」を集め、対応を取ることが「政府」「政党」の役割となり、その場合、国民が「決断と判断」をどう行うか、という情報が適切に処理されて伝われば、それが政府・政党首脳にとっての「インテリジェンス」となります。
「インテリジェンス」とは「情報収拾」「峻別」「判断」「決定」「実行」をもたらすものであり、その「実行」の結果生じる事態そのものに対してまた「」インテリジェンス」が発生します。
このように「情報」というのは政治的経済的活動において、常に連続運動的影響をもたらすものであり、漏洩に対して安易に「よくやった」だの「憂国故の行為」だのと快哉を叫ぶだけであれば、それは「決断と判断」において「それにより何を決定すべきか」を「決める」ことのできない行為でしかありません。
twitter上において、今回の漏洩が「政府の統治機能を弱体化させる」行為であり、「許されないものだ」と述べましたが、それはこのような「連続運動的影響」として、長期的に強力な政権ができる見込みがない以上、本件のような事態とその暴露そのものが「日本」という領域そのものに対しての更なる「外からの圧力を高める」結果にしかならないだろう、という「判断」に拠るものです。次の政権が「民主党」になろうが「自民党」になろうが「みんなの党」になろうが、はたまた「共産党」になろうが、「圧倒的民意を得ようが政府としての基板が甚だ貧弱で政府機関さえ統制できない」という貧弱っぷりを全世界に公然と晒すことが「国益」などになるわけが無いではないですか。
「公開」するのであれば、それは政府自身の手によってさせるべきで、そのために圧力をかけるのは構いませんが、このような無秩序に快哉を叫ぶ神経を自分は疑わざるを得ません。
インターネットと民主主義の関係、問題についてはまたいずれ別の機会に。
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- 作者:松村劭
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今回は同書から。
■決断と判断
決断と判断においては、どこまで決定できるのかを先行的に決めねばなりません。すなわち、(略)「何を考えなければならないか」を決めるのです。「何をいつ決めるのか、をまず決めよ」。
今回の尖閣諸島における海保艦艇への漁船の攻撃的妨害行為(以下本件)において、政府はまず「国内法に基づき処理する」、次いで「映像の公表をしない」ことを決めました。
この段階で、少なくとも「早期釈放はしない」ことを意味し、それは「中国を刺激する」ことを意味したはずです。船長への接見は認めていた事実からして、中国サイドも事実関係は容易に想像がついたはずであり(それと政治的姿勢とは無関係ではある)、「映像を公表しない」ことは「事実関係を明らかにすることは中国の国際的外交関係(特にアジア・太平洋方面での外交関係)において「さらなる警戒をもたらす」ことに対して、日本政府として「恩を売る」形にさえなったはずです。
従って、本来であれば上記決定の際、「どこまで中国の譲歩を引き出すか(落としどころをどこにするか)」が「考えねばならない」ことであり、「いつ決めるか」は「起訴までに(つまり拘留期限内)」ということになるはず、でした。
しかし、政府内部(与党内部も含め)は迷走を極め、そもそも「何を考えなければならないか」も「何をいつ決めるか」も決めないまま決定だけを先出しした感があります。この点でインテリジェンスにとって問題のある決定だったと言えるでしょう。
なぜこのようなことになったのか、と言えば、以下が原因となります。
ある決定に際し、
投票や発言をするときには、責任と実行の義務を要求されます。
「決められないことを決めるな!」
このうち、前者は常に「発言」はその内容を「自身で実行する責任を負うものとして行え」ということであり、同書においてスイス直接民主制がハプスブルグ家からの独立投票を行った際のことが引用されています。
つまり、「国内法により」と決めた時点で、少なくとも「不起訴処分」にするにしても、「国内法」の規定により行うことを「実行」するべきで、そうする「責任」を負うべきでした。地検から「対中関係を考慮し」云々の釈放方針が中央官庁に上がっていたそうですが、そこで「了解」してしまう大臣はこの原則に反します。つまり「無責任」なのです。
そして、なぜこうも無定見な迷走を見せたか、と言えば後者の「決められないことを決めるな」に反した決定を行っていたからに他なりません。これは普天間の問題や昨今の八ツ場ダムの問題にも通じる、この与党(菅政権に限らず鳩山政権以来)の問題と言えます。
■情報を知るべき人、知るべきではない人
情報を報告する先は情報を要求した指揮官であることは当然です。しかし、組織においては指揮官以外にも情報を知る資格(権利)を持つ人たちが存在します。
(略)
「知る権利」とは「対応できる能力」「対応する責任・義務」によって保証されていなければ、単に危険をばらまく以外の何物でもありません。
本件において、第一報〜詳細に至るまで第一に知るべきは「首相」であり、情報を知る資格を持つ人とは「所轄官庁」「内閣府(内閣官房)」「外務省」「法務省」「防衛省」場合によっては「農水省」までの要職は含まれるかもしれません。
しかし、ここで「対応できる能力」「対応する責任・義務」について真っ先に疑問符が呈されるのは、本来内閣の広報官であるはずの(つまり要諦となるはずの)官房長官その人でした。
電話とは言え「釈放の意図」を安易に伝達し、しかも伝達した先は口が軽く信用のおけない野党議員でした。この点だけでも「対応する能力」が無いことは歴然としています。そもそも「国内法での処理」と決めたのは政府そのものであり、それを覆して「釈放」を了解したのも政府の所轄大臣であり、その後はある程度困難な舵取りになることは分っていたはずです。その「責任」を放擲するような行為を政府首脳が率先して行ったことは、そもそも「インテリジェンス」に対する理解の欠如と政治的責任能力の欠落を意味しています。こんな人材を官房に据え続けること自体、首相の政治的責任能力の欠如と言っても過言では無いでしょう。
■方針無き作戦の問題
同書において「作戦指導の基本姿勢」として
●敵がいずれの可能行動を採用しても対応できる「最大安全値案」
●当たれば大成功、当たらなければ作戦不成功の「一か八か案」
●作戦が失敗したときの「最小後悔値案」
●作戦成功の可能性が大きい「最大期待値案」
のいずれの基本態度で作戦するかを決めなければなりません。
従来自民党政権が代々行ってきたのは「超法規的早期釈放」という「最大安全値案」でした。これは、中国が抗議をしようが国内的には解決済みとする対応であり、中国の面子を過度に傷つけない対応法でもありました。
今回政府が「国内法で」と決めたことは、「一か八か案」であり、それであればあるほど「失敗したときの対応」を決めておかねばならなかったにも関わらず、まるでそれを考慮していなかったばかりか、自身の決定が「一か八か案」であることさえ気付いていなかったことは、その後の対応を見れば明らかです。これは決定者として甚だ資質に欠くものと言えるでしょう。
同書においてロンメルが「失敗したときの対応策がある限り」「一か八か案」を採用した、と書いていますが、第一次アフリカ攻勢後の徹底した撤退振りからもそれは窺えます(イタリア軍は撤退のあまりの距離に泣き言を言ったそうです)。もっともチュニジア戦線での戦闘はあまりそのような傾向は見えないのですが、それは彼も人だから、なのでしょう(あまりに仲の悪い指揮官が同じ戦区にいたため、その作戦に徹底して反発した、という事情があります)。
■情報は価値(=商品)であることへの洞察
情報は商品である以上、倉庫に格納し、鍵をかけて保管するのが当然です。(略)情報を受け取る資格がある人は知る権利を持ち、情報を活用できる能力があり、知ることに対する責任と義務を果たすと認定された人たちです。当然、情報は厳密に管理され、保全されなければなりません。
本件においては「映像証拠」がその「情報」にあたります。これは貴重な外交カードであり、裁判証拠資料でもあります。
従って、「非公開」とした以上、その取り扱いを徹底し管理するのは当然と言えます。
漏れ出た映像は海保編集のものと言われていますが、どうやら隊内での教習用に編集され、アクセスは相当に自由だったようです。
少なくとも政府が「非公開」とした以上、海保はその方針に沿って「外部に出ない」よう配慮すべきでしたし、政府としてもそう指示すべきでした。ただの違法操業の取り締まりではなく、「外交問題」になってしまっている問題である以上、それをしないこともまた問題となります。
本件に限らず、昨今検察やら公安やらからの情報の漏洩が頻発しているように見えますが、警察権を持った組織からの情報の漏洩は由々しき問題です。
今回の映像をアップロードした人間が「真実を見せてやるぜ」以上の意識は無かったと考えますが、それは故意ではないとしても、政府方針に反する行為であることは明らかで、増してそれが公務員の側から、となればそれは「情報を活用できる能力、知ることに対する責任と義務」が欠如していると言えるでしょう。
実際のところ映像の内容そのものは「非公開」にする理由は「対中カード」としての「政治的価値」しかなく、事実関係そのものは「報道されている通り」を裏付けるものでしかないわけで、一般に「リーク」すべき価値がある情報(例えば重大な違法行為を政府が隠している等)とは言い難いものがあります。
しかし、それであっても最早「公開しないことでしかカードになり得ない」情報である以上、「リーク」することはそのカードさえも失わせる行為でしかありません。それを政府の統制下にある組織の構成員が率先して覆したとあれば、いかにそれが義憤だろうが正義感の発露だろうが、許されません。「情報テロ」や「情報クーデター」などという言葉が出ていますが、本件の容疑者にそこまでの意図は無かったでしょう。結果として政府を揺さぶる行為になったとしても、重大性の意識は無かったように思えます。しかし、それであっても、特に警察権・軍事権を持つ現場が独断でそのような行為を行うことは政府に対する背信行為であり、その政府がいかに無能であり信頼に値しなかったとしても、それを行うことは「議会制民主主義」に対する挑戦とも言える行為です。同時にこのような漏洩を容易に許してしまっている政府自体、犯人の特定と経路の調査は必要ですが、それと共に「インテリジェンス」について真剣に考え直し、抜本的に意識を変革する必要があります。政府が決定したことを現場が覆すようなことが頻発すれば、そのような政府とどの国が約束事をするでしょうか。相手だって約束を守る気などなくなりますし、それを非難などできないでしょう。
■最後に
このように、本件は当初の事件発生(とその直後の決定)からその後の対応、政府主要閣僚と現場の意識の乖離など、首尾一貫して「インテリジェンス」に対する意識が欠落していると言える事例となります。
さて、上記の中で映像について「映像資料」とし、それを「情報」としましたが、インテリジェンスにおいて、未編集の一次情報は「情報資料」であり、「知識」となります。その「知識」を「目的に対して役立つか、合致しているか」の点で「評価・峻別」し、処理されたものが、初めて「情報=インテリジェンス」となります。
この点で、まったくの生情報では無く明らかに加工・編集された映像が漏洩したことで、これは単なる「情報管理」の問題に留まらず「インテリジェンス」の問題となるわけです。
そして、外交や安全保障といったカテゴリーにおいて、「インテリジェンス」概念無き政治というものは、最早その時点でまともに「機能さえできない」ものでしかありません。単に公開すれば、非公開にすれば良いというものではないのです。
■蛇足
ちなみに、やや語弊がある言い方をすれば、今回の影像に対してそれぞれが所見を加えてBlogやメディア報道に載せることは、その行為自体が「漏洩した影像資料」という「一次情報」に対して、評価・峻別を行った「インテリジェンス」と言えるかもしれません(厳密な定義とは異なります)。
そして、その「インテリジェンス」を「受け手」に発信することそのものが、「発言」として「責任と義務」を伴う行為であると言えるでしょう。
そして、それを投げかけられた読者・視聴者は、今度はその「インテリジェンス」を基に、「決断と判断」を行うことになります。そして、その「決断と判断」がどう成されるか、についての「情報」を集め、対応を取ることが「政府」「政党」の役割となり、その場合、国民が「決断と判断」をどう行うか、という情報が適切に処理されて伝われば、それが政府・政党首脳にとっての「インテリジェンス」となります。
「インテリジェンス」とは「情報収拾」「峻別」「判断」「決定」「実行」をもたらすものであり、その「実行」の結果生じる事態そのものに対してまた「」インテリジェンス」が発生します。
このように「情報」というのは政治的経済的活動において、常に連続運動的影響をもたらすものであり、漏洩に対して安易に「よくやった」だの「憂国故の行為」だのと快哉を叫ぶだけであれば、それは「決断と判断」において「それにより何を決定すべきか」を「決める」ことのできない行為でしかありません。
twitter上において、今回の漏洩が「政府の統治機能を弱体化させる」行為であり、「許されないものだ」と述べましたが、それはこのような「連続運動的影響」として、長期的に強力な政権ができる見込みがない以上、本件のような事態とその暴露そのものが「日本」という領域そのものに対しての更なる「外からの圧力を高める」結果にしかならないだろう、という「判断」に拠るものです。次の政権が「民主党」になろうが「自民党」になろうが「みんなの党」になろうが、はたまた「共産党」になろうが、「圧倒的民意を得ようが政府としての基板が甚だ貧弱で政府機関さえ統制できない」という貧弱っぷりを全世界に公然と晒すことが「国益」などになるわけが無いではないですか。
「公開」するのであれば、それは政府自身の手によってさせるべきで、そのために圧力をかけるのは構いませんが、このような無秩序に快哉を叫ぶ神経を自分は疑わざるを得ません。
インターネットと民主主義の関係、問題についてはまたいずれ別の機会に。
- sionsuzukaze
- 広告代理店プランナーを経て個人商店を経営。政治について執筆。



