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コメンテーターという仕事は何か?~古市憲寿がコメンテーターとして起用される理由

最近、コメンテーターの発言が物議を醸すこと(というか、「物議」だと取り上げられること)が頻発している。報道ステーションでの元通産官僚・古賀茂明の番組へのツッコミや精神科医・香山リカの他のコメンテーターへの非難(Twitter上)などがその典型だ。
今回は、コメンテーターとはなんなのかについて考えてみたい。フィーチャーするのは人気コメンテーターの一人、古市憲寿だ。

地方ではコメンテーターのことをよく理解していないからダメ?

はじめに僕のコメンテーター経験から。
もう十年近くも前のこと。当時、宮崎に暮らしていた僕のところに、地元の民放局からコメンテーターの依頼がやってきた。週末、その週に宮崎で起こった様々な出来事をダイジェストで振り返るもので、MCとコメンテーターで進行するという企画。裏番組がNHKの『週刊こどもニュース』で、おとうさん役が池上彰というとんでもない時間帯だったので、視聴率が上がらず困っていて、担当者が思いついたのがコメンテーターの起用だった。

ところが、この企画、お流れになってしまう。上司からダメ出しをされたのだ。理由は「コメンテーターという役割は宮崎ではまだ時期尚早。コメンテーターのコメントが局の見解と勘違いされる可能性が高い」というものだった。

結局、この番組、やはり視聴率が上がらず1年後に再びお呼びがかかり、僕はレギュラーコメンテーターを務めることになったのだけれど、この上司の指摘、別に宮崎という一地方だけでなく、いまだに有効なのでは?と思えないでもない。そして、この指摘、ある意味でコメンテーターの役割を明確に語っていると、僕は考える。

解説委員・論説委員、評論家、コメンテーター

ニュースやワイドショーでゲスト的な存在で、ある程度知識のバックボーンを備え、何かを説明するという立場で登場する人物を分類してみよう。ザッと上げれば論説委員、解説委員、評論家、そしてコメンテーターとなる。
先ず解説委員と論説委員。前者は放送局でリポーターやキャスターを務め偉くなり、特定分野の説明をするようになった人、論説員は新聞記者を務め、やはり偉くなり社説などを書くようになった人といったところだろうか。これらが番組に登場する場合、原則、期待されているのは、当人がバックボーンとして抱えている政治や経済に対する知識だ。そして、その発言については放送局、新聞社の公的発言性を帯びる。いいかえれば、これらカテゴリーに振り分けられている人間の責任性は原則、個人に帰属しない。社の「大本営発表」という意味合いを帯びている。また担当者のパーソナリティについては二の次ということになる。

次に評論家。これはプロパーとして特定分野の情報を提供することが役割として振られている。軍事評論家の江畑謙介(故人)、航空評論家の青木日出雄(故人)・謙知親子などがその典型で、とにかく、こちらの知らない専門的な知識を持ちだし、視聴者に解説するというのが仕事になる。パーソナリティーについては論説員と同様二の次(江畑のように妙にウケてしまう人もいるが)。視聴者の関心はその知識にある。ただし論説委員・解説委員とは異なり、発言についてはその責任性は個人に帰せられる。間違った情報を流した場合には、責任は評論家に帰せられるのだ。

そしてコメンテーター。コメンテーターは一応何らかの知識的、あるいは経験的なバックボーンを備えていることが前提されている(だから元官僚、弁護士、精神科医、エッセイスト、戦場カメラマン、シャンソン歌手とジャンルは多様になる)。ただし、これはいわば「担保」。コメンテーターは原則、その分野の見識から話題・出来事についてコメントするのだけれど、シャンソン歌手が殺人事件についてコメントするという、その分野とは全く関係のない内容について言及することもある。というか、原則そちらの方が多い。なぜか?

その理由は、コメンテーターに求められているのものが論説・解説委員や評論家に求められる知識・見識よりも、むしろパーソナリティーだからだ。つまり「シャンソン歌手が殺人事件を語ったらどうなるか?」という視点。言い換えれば、それはプロパーの視点ではなく、むしろ個人の側の視点なのだ。だから、そのコメントについての責任性は全てコメンテーターに帰せられる。

ただし、これは理屈。現実にはコメンテーターはしばしば公的な存在、つまり論説委員や解説委員、評論家と同じような存在とみなされてしまう。その典型が報道ステーションでの古賀茂明の扱いだった。番組は、古賀がコメンテーターであるにもかかわらず、限りなくテレ朝大本営発表のような文脈で古賀に語らせたのだ。まあ、そうさせてしまった張本人は、煽った古舘伊知郎たちなんだけれども。ということは、宮崎で僕のコメンテーターとしての起用を当初踏みとどまらせた上司の理屈は、実は全国レベルでもいまだに通用するということになる。つまり、多くのオーディエンスがコメンテーターのコメントを私人の一意見とはみなせない(古賀の取り扱いについては、局の側も混乱していた)。ちなみに、僕は当該の報道番組で毎回二分ほどトピックをあげて解説をするコーナーも任されたのだけれど、終わりに必ず「私はこのように思いますが、みなさんはどうお考えでしょうか」という一言を加え、この解説があくまでコメンテーター一個人の見解に過ぎないこと示すという配慮を行った。

コメンテーターは2.5次元に存在する

こういった、コメンテーターの「半分素人」の視点、実は大変重宝されるものだ。こんなふうに考えるとわかりやすい。前述した解説・論説、評論家、そして局アナはディスプレイの向こう側にいて、一方的に情報を伝えてくる、いわば「二次元的存在」。一方、これを見ている視聴者の方は「三次元的存在」。だが二次元的存在の説明は得てしてわかりにくい。そして一方通行。また、局側からすれば、都合の悪いことは言えない。

ところが、ここにコメンテーターが介在し、テレビの側にいながら視聴者の側からコメントしたりツッコミを入れたりすることで、視聴者側としては放送内容の複雑性を縮減することが出来る。つまり、コメンテーターはディスプレイの向こう側にいながら、こちら側の一人として機能する。そしてある程度知識的なバックボーン、そして見識があるとされているので(実際はともかくとして)、視聴者はコメンテーターを「オピニオンリーダー」=情報を噛み砕き相対化する存在と位置づける。だからコメンテーターは二次元と三次元を取り持つ2.5次元の存在なのだ。

コメンテーターの最も重要な要素はパーソナリティ

知識があるような無いような存在であるコメンテーター。だが、放送側としては、コメンテーターの役割はそれでいいのだ。というのも、前述したように、実際のところコメンテーターに求められているのはコメントの内容ではなく、その語り口、極言してしまえばパーソナリティそれ自体にあるからだ。だから、本当のことを言えばコメンテーターの知識や見識など実はどうでもよい。定期的にコメンテーターとして番組に登場し、そのパーソナリティが認知されることで、視聴者は次第にコメンテーターのパーソナリティそれ自体に、そしてそのパフォーマンスに注目するようになる。そして親密性を抱くようになる。言い換えれば、コメンテーターはタレント性を帯びていく。そうすると、コメンテーターの存在自体が視聴率を稼ぐメディアとして成立するようになっていくのだ。

ということは、コメント内容よりも、むしろコメンテーターが面白かったり、物議を醸したりする方が、実は局としては好都合なのだ。しかも、いざとなったら責任はコメンテーターに帰することが出来る。

古市憲寿というパーソナリティはとっても便利だ

便利なコメンテーターの典型は古市憲寿だ。古市は一塊の大学院生でしかない。『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)という脱力系の若者論がウケ、これをきっかけにテレビにコメンテーターとして登場するようになった。ただし、これだけだとコメンテーターとしても一発屋で終わったはず。ところがそうなっていないのは、しばしば物議系の発言をやってしまうから。ただし、古市は個人攻撃はやらず、もっぱら脱力系で、半ば第三者的、無責任的なコメントを繰り返す。こういった物議を醸すコメントは、物議であっても古市個人の責任性が問われることはほとんどない。原則、他人の攻撃にはならないので「返り血を浴びる」可能性が低いのだ。いわば「ちょっと風変わりで無責任な発言」。これがエキセントリックゆえに目立ち、テレビ局側としてはそのパフォーマンスをおいしく感じるゆえに、いわばトリックスター的に重宝がられるのだ。また、古市の場合、ただの大学院生という不安定な存在、そして若者一人でしかないという立場が、この脱力系・無責任発言をモラトリアムにいる人間がやっている視聴者は無意識に位置づけ、これを許容・免罪する担保になっている。

そして、古市が使いやすい理由。実は冒頭のエピソード、つまり僕が当初コメンテーターを断られた際の理由とピッタリ一致する。コメンテーターはあくまで個人の視点からのコメントしかしない存在。ところが視聴者はそのことがわからず、時として、こういったコメントがテレビ番組でなされた際には、コメンテーターではなく、番組自体が非難の対象となるということが、しばしば発生する。前述した、報道ステーションでの古賀茂明の発言などはその典型だろう。ところが、古市は「無責任な脱力系発言をする若造」という文脈が視聴者の間で認識されている。となると、古市の発言は、あくまで「古市という一個人の発言」ということになり、コメンテーターという立場を視聴者は勘違いしないで済むからだ。そして、もし仮に古市がもっと物議を醸す発言をして問題になったとしても、局側としては「これはあくまで古市が言ったこと」といって知らぬ存ぜぬを決め込むことが出来る。だから古市という存在は局側にとっては安全パイでもあるのだ(『特ダネ!』で古市がコメントする際に見せる小倉智昭のほとんど無視した冷たい対応が、面白い)。
ただし、古市がどこかの大学の専任教員となったとすれば、この担保はなくなる。今度は社会学者というプロパーの立場から責任性を持った発言を要求されるわけで、こうなると古市のこの脱力系のコメントは同じことをやったとしても、非難の対象となるだろう。もう大学院生という免罪符はないからだ。

コメンテーターも、あくまで自らの知識や見識を背景にすべき。ただし……

まあ、視聴率さえ稼げればそれでいいというのが局側の無意識の立ち位置。だから古市みたいなパーソナリティは便利なわけなのだけれど、これでは局もコメンテーターも”衆愚状態”、マスゴミ扱いされるのがオチだ。コメンテーターとしての機能は何らかのかたちで定義される必要がある。やはり、まずは自らの専門分野を立ち位置として「その分野から○○を見たらどうなるか」という視点を堅持するのがコメンテーターの役割だろう。そして、ここに当然、パーソナリティ、つまりタレント性も欠かせない。

さしあたり、このへんのところをもっとも上手く演じているのは経済評論家・獨協大教授の森永卓郎あたりではなかろうか。森永は経済研究所や経企庁務めの経験のある経済プロパー。これがコメンテーターの知識の担保になっていると同時に、自らオタクと自称するように、そのパーソナリティにおいても一定のマニアックなキャラを確保し、それが視聴者の親密性を生み、メディアで重宝がられている(その森永さえ「番組を降ろされるなんてことはしょっちゅう」と、古賀騒動の際にはコメントしていたが)。そして古市のようなトリックプレー=キワモノ的な関心を引きつけるわけでもない。つまり、きわめて”まっとう”なのだ。

視聴者側としては(そして局の側も、さらには場合によってはコメンテーター自身も(例えば香山))、そろそろ「コメンテーターのコメントは、あくまで一個人の見解」であることを、もうそろそろ「あたりまえ」と思ってもいいんじゃないんだろうか。

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