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ヒトラー『我が闘争』解禁問題を再論する - 佐瀬昌盛

 私は2008年12月の『フォーサイト』に「ドイツを悩ます『我が闘争』出版問題」と題する拙稿を発表した。それから6年余、その続編を書かねばならぬと考えている。旧稿で扱ったのは、当時、戦後ドイツで事実上禁書扱いになっていた『マイン・カンプ』の著作権がアドルフ・ヒトラーの死後70年で終了するので、以後は誰でもこの魔書を自由に出版できることになり、ドイツ政府もバイエルン州政府も頭を抱えているという問題であった。今年の大晦日がその日に当たる。

 ヒトラーは1945年4月30日、ベルリンの中心にあった総統官邸の地下壕で愛人エヴァ・ブラウンを道連れにピストル自殺した。その一幕を扱った映画『デア・ウンターガンク』が2004年に封切られた。邦訳すれば「下降」とか「破滅」とかの意味になる。主人公を演じたのは名優ブルーノ・ガンツで、追いつめられた独裁者の左手首がマヒ状態になっていたことなど、迫真の演技を見せてくれた。思い起こすと、どうやらこの映画の封切りあたりから『我が闘争』の著作権終了問題が世上の話題になりはじめたような気がしてならない。

著作権の凍結

 注目されたのは南独のバイエルン州政府の意向である。ナチス・ドイツが無条件降伏すると、当初、米英仏ソ4国が分割占領した。バイエルン州は米占領軍による占領行政を受ける。米軍は『我が闘争(Mein Kampf)』の出版元「エーアー」社(在ミュンヘン)を接収、その著作権を押さえた。しかし、1949年秋に西側3国占領地帯が西ドイツとして発足すると、バイエルン州政府に同書の著作権を与えた。これがいわば問題の発端である。

 敗戦で茫然自失に陥ったドイツ人はヒトラーやナチスのことなど忘れたがった。米国主導の占領政策はいわゆる「4つのD」を追求、非ナチ化(Denazification)、非軍事化(Demilitarization)、民主化(Democratization)、非集中化(Decentralization)を強制したが、第1順位を占めたのはほかならぬ非ナチ化である。戦後の困窮の中で人びとはこの占領政策に喜んで身をゆだねた。バイエルン州政府も、大した考えもなく『我が闘争』の著作権を凍結してしまった。独裁者のこの著作を出版したいから著作権を譲渡してほしいと酔狂に申し出る人間がいるわけもなかった。

 しかし、世の中が落ち着いてくると、逆に変な連中も出てくる。極右、極左の問題である。極左とは言うまでもなくドイツ共産党。極右には若干の変遷があったが、有名になったのは国家民主党(NPD)だ。この極右政党は今日でもいくつもの州議会で議席をもっている。ただ、1949年に制定された西ドイツの基本法(憲法)第9条(2)の規定により、「目的もしくは活動が刑法律に違反する団体、または憲法的秩序もしくは諸国民間の協調の思想に反する団体は禁止される」ことになる。国家民主党は巧みに法の目をくぐり抜けてきたわけである。だから、今日の繁栄するドイツでも極右政党がチャンスに恵まれないわけではない。

図書館での奇異な扱い

 連邦政治レヴェルでも州政治レヴェルでも、戦後ドイツでは全体として見れば中道右派、中道左派勢力が圧倒的に強い。小党乱立で政局不安定に悩んだワイマール共和制とは大違いで、今日のドイツは疑いなくヨーロッパの最優等生国である。だが、だからこそ逆に、1990年10月の両ドイツ統一後のベルリン共和制には対外的に体面をひどく気にするところがある。それを象徴するのが『わが闘争』著作権問題であった。それは直接的にはバイエルン州の事項だが、連邦政治レヴェル、つまり国政レヴェルでも変わりはない。

 対外的体面を気にするあまり、ヒトラー隠しがいつしかドイツ政治の常態となった。『我が闘争』も人目につかぬことが望ましい、と考えられた。そしてそれが実行された。バイエルン州政府による同書著作権凍結で、それは書籍市場には出てこない。それだけではない。この狂気の著作はそもそも人目から遠ざけられてきた。具体的に言うと図書館での『我が闘争』の取り扱いがある。

 たとえばベルリンの国立図書館はドイツ最大の図書館で、私の調べたところ、同書を35点所蔵している。ところがそのいずれもが閲覧不可か「閲覧室でのみ利用可能」となっている。後者の場合、読むことは読めてもコピーはできない。なお国立図書館には米英両国で出版された『我が闘争』も所蔵されている。だが、その扱いも同じこと。

独語古書がドイツで入手不可

 では古書市場ではどうだろう。『古書中央目録(ZVAB)』という便利な検索サイトがあり、私も幾度か利用したが、『我が闘争』については1冊の登録もない。私はその1939年版を1968年に東京、神田の一誠堂で入手した。いわゆる亀の子文字の書物だが、見開きに「これまでの発行総部数は525万部」とある。ドイツの無条件降伏の前年である1944年までは同書の刊行は続けられたから、全体では1000万部弱程度が世に出たことだろう。だから、敗戦後も100万や200万の『我が闘争』はドイツの家庭で私蔵されているはずである。ところが、古書市場には1冊の供給もない。少なくとも古書目録には出てこない。どういう仕組みになっているのかは知る由もないが、どこかで統制されていると見るほかない。地球の裏側の日本では自由に入手可能なドイツ語古書が、ドイツでは入手方法がないという不可解さなのである。

 奇怪さはそれだけには止まらない。ドイツ語圏の図書館ではどうか。ヒトラーはもともとオーストリア帝国の小都市ブラウナウで生まれた。そのオーストリアの首都ウィーン最大の国立図書館には計21冊の『我が闘争』がある。スイス最大のチューリッヒ中央図書館にも無論ある。それらはいずれも何の閲覧制限もコピー禁止もない。勿論、読みたいという奇特な人間がいるなら、の話なのだが。

 ついでに日本についても触れておこう。国立国会図書館はドイツ語版『マイン・カンプ』を10点所蔵している。うち、最も古いのはなんと初版本の1925年版である。それはヒトラーの政権掌握に8年も先立つのだが、実際にそんなに早く購入されたのかどうかは不明だ。いずれにせよ、所蔵点数の多さに私は驚いている。日本が絡む問題についてはもう1点あるが、それは後述する。

何故か「日本学」専門家が研究参加

 さて、あと8カ月ほどに迫った魔書解禁を前に、ドイツの出版界には手ぐすね引いている手合いが少なくない気配である。各州の法務大臣は一致して『我が闘争』禁止体制を続けたい意向だが、そのための方策が見当たらない。他方、商機到来と勢い込む出版業者の中には廉価版を作って、街角や駅のキオスクで売り出そうとする動きがあると伝えられる。これに対抗しようとしているのが在ミュンヘンの『現代史研究所』である。この研究所については旧稿でかなり詳しく触れたが、この現代史研究のメッカは厳密な学術的考証付きの『我が闘争』全編を出すべきだと年来主張してきた。

 この研究機関は、もともとは米軍の勧告によって1949年5月に『ドイツ国家社会主義史研究所』、つまりナチズム研究機関として発足した。1952年に今日の『現代史研究所』に改称され、以来、ナチス時代だけでなく戦後ドイツの政治・社会の諸相を扱い、『現代史四期報』を刊行してきた。その実績から同研究所は『我が闘争』解禁の日に備えて、それを一種の学術出版として世に出す準備に余念がなかった。しかし、その概略を知ると、首をかしげざるを得ない。

 まず、全編に約5,000の厳密な学術的注釈が施される。だから、原著の781ページが2,000ページ程度にふくらむ模様だ。当然、定価は高くなる。とすれば、販売商戦で廉価版とこの重厚な学術書のどちらに軍配があがるかは明瞭だろう。個人が学術考証版を買うことは期待するのが無理で、公立や大学の図書館がその主たる購入者となることだろう。

 そういう事情もあり、昨年7月6日の『ヴェルト』紙は『現代史研究所』のヴィルシンク所長との対談で無料のインターネット版を出してはどうかと提案したが、明確な答はなかった。もっともそれは昨夏のことなので、今日では事情が変わったかもしれない。

 なお、同研究所のサイトでは、過去3年ほどの間に欧米メディアが扱った『我が闘争』解禁をめぐる各種の記事や特集が読める。それを見ていて私はいささか気になった。日本のメディアは全く取り上げられていない。それは止むを得まい。ところが、『我が闘争』の紹介ページ冒頭には3枚の写真が横並びに組まれていて、ヒトラーの左横に石川準十郎の著書がナチスの鉤十字つきで登場している。石川は戦前・戦中日本の国家社会主義者だった。また、同じサイトの「ヒトラー、我が闘争――批判版」を読み込むと、その編纂作業にはドイツ学研究(ゲルマニスティーク)、人間遺伝学、日本学(ヤパノロギー)、ユダヤ学、芸術史、教育学、経済史学の研究者が加わるとある。なぜこのテーマに日本学の専門家の参加が必要なのだろう。

根くらべ

 ともあれ、今日のドイツは欧州における最優等生国である。政権は安定し、経済はEUの牽引車的役割を演じている。細部を見れば、ドイツ統一後四半世紀を経ても依然として残る東西間の経済格差もあれば、一部に外国人排斥の動きなどもあるにはある。しかし、1871年のビスマルクによるドイツ統一以来、今日のベルリン共和制が最高得点を獲得することは疑いを容れない。『我が闘争』の自由出版時代が到来し、少しの騒ぎが予想されるにしても、それによって今日の繁栄と安定が損なわれるというわけでは絶対にない。ただ、歴史をやり直すことができない以上、この問題は優等生国ドイツにとってのほとんど唯一の泣きどころであり続けるだろう。優等生に対する嫉妬心からこの国の歴史的古傷に塩をすり込もうとする外国勢力もまた、絶えることはあるまい。結局はその根くらべだというのが私の診断である。来年のいまごろには、その一応の診断結果が明らかになることだろう。

[画像をブログで見る]
『我が闘争」初版本に記されたヒトラー直筆のサイン(C)AFP=時事

執筆者プロフィール
佐瀬昌盛
防衛大学校名誉教授。1934年生れ。東京大学大学院修了。成蹊大学助教授、防衛大学校教授、拓殖大学海外事情研究所所長などを歴任。『NATO―21世紀からの世界戦略』(文春新書)、『集団的自衛権―論争のために』(PHP新書)など著書多数。

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