記事

製造業のフリーミアムとしてのリーン・イノベーション

ハードウェア・ビジネスでフリーミアムが可能なのかと首をかしげた方も多いだろう。

髭剃りのホルダー(柄の部分)を廉価で販売して替え刃で儲けるというジレットの古典的なビジネスモデルや複写機の消耗品ビジネス、そして一時期マクドナルドが行っていたコーヒー無料キャンペーンなどを類似例とした解説によって、インターネットの「ビット経済」で誕生した新しいビジネスモデルとしてのフリーミアムの本質が誤解されているように思う。髭剃りや複写機のビジネスは垂涎のビジネスモデルだが、それらはフリーミアムではない。替え刃のないホルダーや、トナーや紙がない複写機はまったく価値がないからだ。無料のコーヒーは、スーパーの「赤字覚悟の本日の特売品」と同じ客寄せに過ぎない。これらをフリーミアムという新しいビジネスモデルの例として引き合いに出すのは間違いだ。アプリの使用期間や重要な機能を限定したお試し版を提供するのもフリーミアムではない。

マクドナルドがいつもコーヒーを無料で提供し、店は無料のコーヒーを飲むだけの客で賑わい、何人かはハンバーガーを注文し、皆がそこでの体験に価値を感じている。それで店の収支が合うようにコスト管理されていれば、そのビジネスモデルはフリーミアムだといえる。90%(例えば)の無料の利用客のコストを、10%の有料の利用客からの収益でカバーする。それは、無料のサービスを提供するコストが利用者の数に比例して増加しないWebサービスだからこそ可能なモデルで、人件費やコーヒーなどのコストを考えると、リアルなサービスや物販では当然ながら難しい(しかし瀕死のマクドナルドは経験価値という視点を取り入れて、新しいビジネスモデルの創出に取り組んでもいいのではないだろうか)。

リーン・イノベーションでは、「コンセプト・デザインフェーズの5つのステップ」で策定したリーン・ステップに基づいて開発(フェーズ)を進める。
この例のゴールでは、新しい製品とアプリとWebサービスで新しい経験価値を提供する。そのアプリとWebサービスの利用は無料(フリー)で、新しい製品が有料(プレミアム)となりフリーミアムを構成する。
ハードウェアのフリーミアムの顧客ピラミッド

例えばインターネットに繋がった冷蔵庫は、Webサービスや、そのサービスにアクセスするモバイル・アプリと連携して価値を発揮する。しかし、インターネットに繋がった新しい冷蔵庫を購入してからでないと、その価値を実感し理解することができないとすると普及は難しい。フリーミアム・モデルでは、誰でも利用できるアプリとWebサービスだけで新しい体験を提供しなければならない。
「それでは新しい製品を買ってもらえない」と考える前に、インターネットに繋がった冷蔵庫が人々にとってほんとうに価値を提供できるのか、その価値を理解してもらうことができるのかということを考えるべきだ。

これまでになかった新しい体験の価値を人々に理解してもらうためには、そのハードルを下げて、まずは多くの人に体験してもらう必要がある。その価値の理解が進むと顧客ピラミッドが縦軸方向に成長し、やがてハードウェアを購入する利用者が現れる。市場がアプリとWebサービスで得られる価値について理解する前に、ハードウェアが売れないからといって機能を強化したところで効果はない。
価値理解の成長プロセス

この段階ではハードウェアの販売についてはいったん忘れて、アプリとWebサービスのユーザーを獲得することに集中する。まちがっても、アプリやWebサービスの一部の機能やストレージなどの追加の容量を、ハードウェアを購入した顧客にだけ提供しようなどと姑息なことを考えることはやめたほうがいい。それでハードウェアが売れるはずは決して無いし、アプリやWebサービスの魅力が半減して無料のユーザーも獲得できないという虻蜂取らずになってしまう。
ハードウェアはその機能で勝負しなければならない。アプリとWebサービスで得られる価値を理解したユーザーが、その経験価値をさらに高めるためにハードウェアが欲しくなるように、アプリとWebサービスとハードウェアの役割(機能)分担をデザインする。

ハードウェア自体がこれまでになかった発明であれば、アプリとWebサービスによる価値理解の段階の取り組みの中で、人々の潜在的なニーズを顕在化させて新たな市場を創造し、ハードウェアの生産を開始する前に市場からのフィードバックを得ることができる。これはリーン・イノベーションの狙いのひとつだ。

冷蔵庫のような耐久消費財は、新しい製品が出たからといってすぐに買い換えるということはない。ある程度の期間を経てから、故障など別の理由での買い替えとなる。ハードウェア・ビジネスのフリーミアムのコンバーション(無料サービスの利用から製品購入)も、このタイミングを狙うものだ。それまでに価値の理解が進んでいれば、他社の製品と比較することなく指名買いしてもらえるだろう。 もちろん、フリーミアムがそのタイミング(決断)を早めるということも期待したい。

上の「価値創造の成長プロセス」の図のように、顧客ピラミッドが縦軸方向に成長していけば、ハードウェアの購入につながる。では、この縦軸はなんだろう。例えばアプリとWebサービスの利用頻度かもしれない。利用頻度があるレベルを超えると、ハードウェアを使ったほうがより便利になるような場合だ。あるいは、頻度ではなく時間かもしれない。アプリとWebサービスの一部の機能の利用が増えると、ハードウェアの必要性を感じるようになる場合もあるだろう。アプリとWebサービスによる価値理解のプロセスにおいて、その成長を測定する指針を明確にし、顧客ピラミッドが縦軸に成長するための成長エンジンが必要になる(成長エンジンについては次回以降に書こうと思っている)。
価値の成長パターン

顧客ピラミッドが相似形や、より尖った形で成長していけばいいが、利用者が増えても縦軸方向への成長が見られない場合は立ち止まって何が問題なのかを考える必要がある。

価値の成長が進むと「価値創造の成長プロセス」の図の右端のように価値の飽和が起こる。成長エンジンがまわって無料のユーザーが増えても顧客ピラミッドは横に伸びるだけで、コンバージョンの効率が低下するようになる。

事業がハードウェアの買い替えサイクルに入ることは必ずしも悪いことではないが、提供価値の相対的な低下によって顧客ピラミッドの高さが低くなってしまうと事業存続の危機が訪れる。しかし、機能を追加するなどしてハードウェアの価値だけを高めても、その事業の顧客ピラミッドの形、すなわち無料と有料の顧客のバランスを変えることはできない(下図の左)。右のように、アプリとWebサービスとハードウェアの全体の提供価値を再構築する必要が有る。

事業が好調な間に次のイノベーションのために、もういちど「モノのデジタル・リマスタリング」をやり直すことができるだろうか。
  1. イノベーションを可能にする技術やインフラを定義する
  2. それによって可能になる「新しいユーザー体験」を描く
  3. バリュープロポジションを定義する
  4. それを実現する製品「ハード」「ソフト」「サービス」を再定義する 
次のイノベーションのときには、それを可能にする技術やインフラとは、もはやインターネットではないかもしれない。事業を成長させるためのリーン・イノベーションは、果てしなく繰り替えさなければならない。

もう一度、顧客ピラミッドを見て欲しい。
インターネットが出現するまで、コンスーマ製品をつくる一般的な製造業は製品を流通業に販売するだけで、その製品の顧客との接点はほとんど持っていなかった。しかし、インターネットによって製造業が顧客との接点を持つことが容易になった。最初のフリーミアムの取り組みで、製品の購入者の数倍の人々との接点を持つことができたら、この顧客ベースから次のイノベーションを始めることができる。
記事の更新はTwitter (@kyosukek)でお知らせします。お問い合わせやご相談は、contact に @ibornb.red をつけたアドレスまでメールでお寄せください。
川手恭輔(Internet Born & Bred)

あわせて読みたい

「イノベーション」の記事一覧へ

トピックス

ランキング

  1. 1

    五輪中止は決定済み? 記事に驚き

    天木直人

  2. 2

    PCR至上主義は幻想 韓国で露呈

    中村ゆきつぐ

  3. 3

    朝日の言論サイト「論座」で誤報

    やまもといちろう

  4. 4

    テラハ 作り上げたリアルの実態

    浮田哲

  5. 5

    河井夫妻支えた安倍首相の思惑は

    猪野 亨

  6. 6

    フジは迷走? コロナ禍のTV企画

    メディアゴン

  7. 7

    官邸主導で露呈 日本の技術敗戦

    新潮社フォーサイト

  8. 8

    首相がアビガン承認を急いだ背景

    川田龍平

  9. 9

    日産だけでない自動車会社の問題

    ヒロ

  10. 10

    Rキャンベル コロナは時間の災害

    村上 隆則

ランキング一覧

ログイン

ログインするアカウントをお選びください。
以下のいずれかのアカウントでBLOGOSにログインすることができます。

コメントを書き込むには FacebookID、TwitterID のいずれかで認証を行う必要があります。

※livedoorIDでログインした場合、ご利用できるのはフォロー機能、マイページ機能、支持するボタンのみとなります。