- 2015年03月16日 10:17
「説明不十分」は、僕の責任なのかメディアの責任なのかはっきりさせるべき - 3月16日(月)のツイート
メディアは相変わらず都構想についての僕の「説明が不十分」という世論調査の回答を報じるのみ。質問を明確にすべき。説明の量(機会)が不十分なのか、中身が不十分なのか。量のことなら、僕がどれだけのタウンミーティングをやっているかをしっかりと説明して質問をすべき。
通常の市長業務をやり、空いている時間は全てタウンミーティングで説明している。ネットでも全て観れるようにしている。それとも中身が不十分といことか。それなら、タウンミーティングかネットで僕の説明を聞いた人だけに質問をすべき。
まずどれだけの人が僕のタウンミーティングやネットでの説明を聞いてくれたのか明らかにすべき。説明の中身が不十分かどうかは聞いた人に質問をするものだろう。説明の量が不十分と言うなら、僕がどれだけのタウンミーティングをやっているのかまず説明した上で質問をすべき。
「説明不十分」の意味が、量的に不十分なのか、質的に不十分なのか全く分からない。前者はどれだけの量かを説明してからの質問。後者は説明を聞いた人に対する質問。こんなの中学校の国語レベルの論理なんだけど。
僕のタウンミーティングの量を説明した上で、僕の説明が量的には十分という結果になり、しかし聞いたことがない人がほとんどという結果になれば、それはすなわちメディアの怠慢となる。メディアが伝えていないだけ。この「説明不十分」は、僕の責任なのかメディアの責任なのかはっきりさせるべき
※この記事は橋下徹大阪市長のツイートを時系列順に並べたものです。メディアが世論調査を通じて政治をあるべき方向に向かわせるというのであれば、正しい情報の伝達に務めるべき。説明不十分は、量的に不十分なのか、それとも中身自体が不十分なのか。説明不十分という結果が出ても、こちらは採るべき方策を選択できない。
量的に不十分ということであれば、量を増やす努力をする。中身が分からないということであれば、分かりやすい説明に努力する。有権者がどちらの意味で説明不十分と言っているのかを明らかにするためには、まさに質問力が問われる。
説明の量が不十分ということを明らかにするなら、僕が今やっている説明の量を説明してから質問すべき。説明の中身が不十分ということを明らかにするなら、僕の説明を聞いた人への質問にすべき。調査をする側の質問力の問題だ。量は十分だが聞いたことがないという人が多ければ、それはメディアの責任だ
僕の説明不足を明らかにすることはもちろん必要だけど、メディアにも報道不足がないのか明らかにする必要もあるでしょ。普通の企業ならこういうところを必死になって探るんだよね。自社のサービスは顧客と捉えているか、それが企業存続の全て。メディアはそれをやらない。そりゃ、衰退するね。