- 2015年03月11日 19:00
核・放射線のイメージ史――3.11後の語りづらさをめぐって - 山本昭宏 / 日本近現代文化史
3/3文化的ムーブメントとしての「反原発」
1986年、ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で大事故が起こった。それを受けて、日本でも原発に関する議論が高まっていく。
反原発のメッセージで若者たちを惹きつけたポピュラー文化は、ロックだった。それまでも、「アトミック・カフェ・フェスティバル」という野外ライブが東京で開催されるなど、核とロックの結びつきは存在したが、チェルノブイリ原発事故後、その結びつきはよりいっそう密接になり、原発への反対が歌われるようになったのである。
忌野清志郎が所属していたRCサクセションは、エルビス・プレスリーの「ラブ・ミー・テンダー」などの楽曲を、反原発の歌詞で「替え歌」し、ライブなどで歌い始めた。これらの曲は、シングル「ラブ・ミー・テンダー」とアルバム『COVERS』として1988年に発売される予定だったが、所属会社の東芝EMIは、発売中止を決定した。
この騒動は、他のミュージシャンたちを刺激し、ザ・ブルーハーツや佐野元春ら人気ミュージシャンたちが、「反核・反原発ソング」を相次いで発表していく。この動きに、若者向けカルチャー雑誌の『宝島』や一部のマンガ雑誌も連動し、反原発は一大ムーブメントになったのである。反原発という態度が、「カッコいい」ものとして、一部の若者たちに受け止められたのだった。
しかし、このムーブメントは長続きせず90年代になると、ポピュラー文化が核を描く頻度も減っていった。ポピュラー文化における核のイメージに大きな変化がないまま、日本社会は2011年3月11日を迎えることになる。
失われたパロディ
震災直後に目立ったのは、自粛の傾向だった。東京にある原発がメルトダウンを起こしたという設定のマンガ『COPPELION』(2008年~)は、震災前からアニメ化の企画があったが、震災を受けてその計画がストップした(アニメは2013年に放映された)。また、『白竜LEGEND』というマンガの「原子力マフィア編」は中断を余儀なくされた(その後、2013年8月から再開され完結)。
ポピュラー文化における核のイメージを振り返ると、人びとは核の破壊力や放射線の影響を恐れながら、同時にそれを愉しんできたことがわかる。ポピュラー文化は、核の恐怖を飼い馴らし、受け入れやすく変形することに長けていたため、核を拒む態度の浸透に寄与したが、他方でそれは、核を面白く描くことと表裏一体だった。
しかし、冒頭の『美味しんぼ』の鼻血問題へのバッシングや、震災直後に見られた自粛傾向が示すように、原発災害に関わる言論や表現は萎縮していた。誠実で配慮に満ちたようにみえる言葉や表現が溢れ、それ以外のものは抑制された。このような状況下で、戦後日本のポピュラー文化が一貫して提示してきた「愉しい核・放射線」のイメージは、不謹慎なものとして排除されるだろう。
それはそれで無理のないことなのかもしれない。ただし、核や放射線でさえも愉しむという態度を許容しない社会は、言論と表現に関する一つの可能性を失うかもしれない。
その可能性とは、パロディだ。どういうことか、過去のポピュラー文化から例を取り出してみよう。
木下恵介監督による『カルメン純情す』(松竹、1952年)という映画がある。この映画は核とは何の関係もない喜劇映画なのだが、ある家政婦の姿を通して間接的に原爆が描かれている。
その家政婦は、日常生活のあらゆることを原爆と結び付けて考える習慣を持つ。外で火事が起こり、喧騒が聞こえると「原爆ですか?」と尋ね、「原爆はこりごりでございます」と嘆く。また、子どもの話題になると突然怒ったように「あの子は原爆で死にました」と言い放って席を立つ。芸術家に奇抜な服を着せられても「原爆で死んだと思って諦めているんです」と述べる。これらの場面には深刻さはなく、むしろどの場面も「笑える」のである。
彼女が被爆者であるかどうか、映画内の情報からは確定できないが、会話のやりとりのなかで突然「原爆」が出て来るため、奇妙な異物として日常生活に原爆が入り込んでいる様子が描かれている。このように、神経症的にあらゆる物事を原発に帰責する家政婦の姿は、核の悲劇をパロディ化して観客の笑いを誘いながら、核への切迫感を確実に芽生えさせることに成功していた。
『カルメン純情す』の家政婦のような人物は、現在の社会では描きにくいだろう。核と放射線について、このような表現の可能性が原発災害後のポピュラー文化から失われたのだとすれば、やはり原発災害はポピュラー文化の核イメージを確実に変えたのだと言わざるを得ない。その変化が、言論や表現が衰弱する前兆ではないことを願いたい。
フランスの風刺週刊紙へのテロ攻撃が起こった際にも、言論や表現と社会との関係は議論された。その関係を問い直すことは、私たちにとって普遍的な課題であろう。本稿は、ポピュラー文化の核イメージという視点に立ってその変遷を点描したわけだが、現代日本における言論や表現と社会との関係を、改めて考える時期に来ているのではないだろうか。
画像を見る 山本昭宏(やまもと・あきひろ)日本近現代文化史・歴史社会学
神戸市外国語大学専任講師。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。
著書に、『核エネルギー言説の戦後史1945-1960』(人文書院、2012年)、『核と日本人』(中央新書、2015年)。
リンク先を見る 核と日本人 - ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ (中公新書)
著者/訳者:山本 昭宏
出版社:中央公論新社( 2015-01-23 )
定価:¥ 950
Amazon価格:¥ 950
新書 ( 266 ページ )
ISBN-10 : 4121023013
ISBN-13 : 9784121023018
関連記事
■橘川武郎「安倍内閣のエネルギー・原発政策」■伊勢崎賢治×伊藤剛「なぜ戦争はセクシーで、平和はぼんやりしているのか――戦争とプロパガンダの間に」
■標葉隆馬「東日本大震災―――改めて見つめたい『これまで』と『これから』」



