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SNS上で目撃する他人の写真の「いかがわしさ」について

SNSの流行によって、ぼくたちがほとんど初めて「見ず知らずの他人が写っている写真(スナップ写真、記念写真を含む)をながめること」を体験できるようになった。何十年も前の歴史的な資料ならともかく、同時代を生きる赤の他人の写真を目にする機会なんて、これまではほとんどなかったはずだ。たとえばFacebookは承認制だが、自分の知人でなくても「知人の知人」もしくは「知人の知人の知人」ぐらいの画像までは頻繁に流れてくる。


そうした写真を目にしたとき、あなたはどこかモヤモヤした違和感みたいなものを抱いたことはないだろうか? おそらくそれは、自分の知らない他人の楽しげな姿が写っている写真を眺めたことで催される感覚だ。

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これはぼくだが、他人からすれば相当異質な光景だと思われる。


違和感、もしくは"いかがわしさ"とでも言いたくなるような何かだ。別にここで、写真をむやみに公開することがダメだとか、けしからんだとか言いたいわけではない。

無論、ときと場合や、写っている姿によっては公開を自制した方がいい場合もあるが、これまでぼくは、そのような他人の写る写真を眺めることで催される"いかがわしさ"の類を、むしろ面白く受け止めていたのだ。


こうした感覚につながるような示唆にとむ洞察を読んだので、きょうは紹介しておきたい。写真家・畠山直哉氏の著書『気仙川』だ。

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気仙川


東日本大震災から明日でちょうど4年がたとうとしているが、畠山氏は震災当時、故郷の陸前高田にいる母親と姉2人の安否を確かめるため、震災2日後にオートバイで被災地に向かった。本書はその顛末を、震災前後の故郷の写真とともに文章でつづったものだ。

その巻末で興味深いことをつづられている。彼はそれまで、写真を個人の「記憶」のために撮っていたわけではなかったという。それは写真家という職業柄ということもあるだろうが、それ以上にもっと積極的な「記憶のための写真を撮影することを拒む理由」を説明している。

 記憶は常に個人のもので、ほかと比較することなんか無理なほど絶対的なものだから、記憶を助けるために撮られた写真ならば、その写真の意味合いも絶対的なものになる。絶対的な写真は、撮った本人にとっては大切なものでも、他の人にとってはそうとは限らない。本人が大切に思っている様子がよくわかればわかるほど、他の人にとってはそれが、手が届かないもののように感じられてくる。

P.124


写真を専門にしていない人間にも、この「絶対的な写真」については直感的に理解できる。

たとえばぼくは、実家の建て替えで引っ越すことになった当日、祖父の代からある家屋ということで名残惜しくもあり、家族総出で家の中のいろいろな場所を撮影した。出来上がった写真を眺めれば、その家で毎日を過ごしたぼくらの脳裏には、その写真一枚一枚を元に色々な記憶やイメージが奥行きをもって立ち現れる。これは当然だ。

しかし、おそらく他の人にとってそれら立ち現れてくるものは「手が届かないもの」なのだろう。多くの人にとって記念撮影とはそのように特定の人の間のみで共有される「記憶」を助けるためお手段なのである。

こうした「絶対的な写真」こそが、冒頭であげたような「Facebookで流れてくる見ず知らずの他人が写った写真」なのは、いうまでもない。


では「絶対的には思わない人」の目に「絶対的な写真」はどう映るというのだろう。

「絶対的な写真」を見せられることは、個としての人間と、集合としての人間が見せるコントラストに立ち会わせられる経験だと言ってもよい。いったん写っている人物や出来事から気持ちを離し、像を「写真」として観察した瞬間、それはほとんどの場合、どこででも繰り返されている類型に変化し、個の記憶との間で背離が起きる。たった一人の、たった一度きりの、でもどこにでもあり、繰り返されるもの。そんな相反感情併存(アンビヴァレント)の経験が、一種のやるせなさを伴うのは当然であって、このやるせなさからなんとか脱出したいという願いが、普遍性という上位概念を生み出し、ひいては近代写真芸術の推進力にもなったのではないかとさえ、僕には思えていた 。

P.124


ここを読んだときぼくは、膝を打つ思いがした。

おそらくぼくがFacebookに流れてくる赤の他人の写真に感じていた"いかがわしさ"について、この文章は解説してくれている。

Facebookというメディアの性質上、そこで公開されているのは、何かをする誰かの天真爛漫な姿が写した写真が大半だ。

けれど、彼ら被写体がフレームの中でどんなにハツラツと、生き生きと固有性を発揮していようと、それは「どこででも繰り返されている類型に変化し」てしまう。

写真が「たった一人の、たった一度きりの」瞬間をとらえたものであると同時に、赤の他人であるぼくはそれをほとんど同時に「どこにでもあり、繰り返されるもの」として知覚する。

実名(固有)性と匿名性を同時並行的に醸し出す「絶対的な写真」の「一種のやるせなさ」こそが、おそらくぼくがFacebookで赤の他人の写真を目にしたときにもよおす違和感なのだと思う。


ちなみに、「絶対的な写真」を避け、普遍性を追い求めて芸術としての写真を追求してきた畠山氏だったが、さきの震災においてそうした姿勢を揺るがされる体験をしたという。

震災で故郷を破壊された後、それ以前に少しながら撮っていた故郷の写真たちが彼の中で「意味合いを変えた」というのだ。

 故郷の姿は、いまでは人の記憶の中と、写真の中にしか存在しない。どうということもなかった僕の写真は、僕の意図とは無関係に「記憶を助けるもの」に突然変化してしまった。姉羽橋はどのような形をしていたのか。酒屋の隣には何があったのか。あの人はどんな歩き方をしていたのか。それを懸命に思い出そうとする時、僕にはもうこのわずかな写真しか、手がかりとなるものがない。

 僕がやるせなさを感じて敬遠してきたような「絶対的な写真」に、これらの写真も変化してしまった。(中略)このような時の写真の振る舞いの身勝手さは人の手に負えず、僕らはそれをひとつの現象のように、ただ見つめることしかできない 。

P.125


想像を絶する災禍によって町並みが消えたとたん、故郷の写真は畠山氏にとって、「記憶を助けるために撮られた写真」になったというのだ。

著者はそこで「写真の振る舞いの身勝手さ」に驚いているけれど、ぼくはそれと同時に、写真の意味合いさえも変えてしまう、そんな震災の凄まじさについても今一度考えさせられたのである。

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