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- 2015年02月17日 12:23
「無責任」の構図が生み出す結果
「改革」が招くことになった弁護士や法曹養成の現状を、弁護士・会はなぜ、想定することができなかったのか――。これまで弁護士会内の世論を見わたしてくると、不思議なくらいこのことへの問いかけが希薄な印象を持ちます。もちろん、「私たちは分かっていて警告していた」という弁護士も沢山います。ただ、一方で、こうした結果をまるで想定していないように、「大丈夫」の太鼓判を押した弁護士たちが、この「改革」を主導し、そして多くの弁護士たちがこれを受け入れたのは事実です。
いま、このテーマを投げかけると、「いまさら建設的でない」といった、弁護士が議論を封じるときに、しばしば用いるフレーズが返ってきたりします。あるいは、当時の「選択」にかかわっていた世代の弁護士からも、どこか他人事のように、「どうしてこういうことになっているんだ」といった、答えにたどりつけない、ため息まじりの声が返ってきたりします。
どういうことが想定されていたのでしょうか。弁護士が量産されても、現存の弁護士たちが対応しきれないほどの有償のニーズが埋まっているのだから、それが掘り起こされる形で、新人も既存の法律事務所に吸収されていく。開拓努力をするという意識変革さえすれば、社会全体が事後救済型になる中で、ニーズは十分に掘り起こせる。この大量の弁護士を生み出すためには、従来の司法研修所の教育では物理的に対応できないので、大学にこの養成に参入して、法科大学院を中核とする新たなプロセスで輩出するしかない単に数を増やせば、質の低下が問題にならざるを得ないが、そこは法科大学院の教育が底上げ的にレベルを確保しつつ、増員が実現されていく――。
今では当たり前のようにいわれる、競争による淘汰が質を確保するといった発想は、弁護士のなかに希薄だったと思います。これまでよりも、競争が激しくなるということは想定ができたとしても、前記潜在ニーズに関する基本的な発想のなかでは、ここまでの生存をかけた競争状態にさらされることを多くの弁護士は想定していかった。まして新人の就職難という事態や、質を教育と資格試験によってではなく、最終的に淘汰によって担保するといった状況への懸念が、正面から取り上げけられたわけでもありませんでした。
その一方で、太鼓判を押していた主導層はともかく、当時の個々の弁護士たちの本音の部分では、この業界が全体として激的な増員に耐えられるという感触をどこまでもっていたのかは、疑問です。弁護士必要論は当時、あふれていましたが、それが個々の弁護士の生活を具体的にどのくらい支える有償ニーズにつながっているのか、「開拓」という号令の先に、どのくらいの規模のものがもたらされるのか、つかめていた弁護士の方が少なかったと思います。
あえて語弊のある言い方をすれば、ここに「無責任」の構図があるように思えます。つまりは、「大丈夫」と太鼓判を押しながら、それは果たして弁護士全体の未来について語られていたことなのかという疑問です。今でも、端境期といわれる中堅弁護士が口にするのは、自分たちより上の、経済的安定が崩れることを疑いもしていなかった弁護士層の存在です。彼らは自らの安定が崩れない未来は確保できたところで、弁護士全体の未来に太鼓判を押していたのだ、と。
こういう言い方はお叱りを受けるかもしれませんが、これは「悪意」というよりも、事実上の「限界」というべきなのかもしれません。もちろん、ここに「悪意」に近いものを読みとる意見もあります。
「日弁連執行部と司法改革推進論者らが、弁護士不足のために弁護士大増員が必要であると言い出せば、それが嘘であっても、世間は、自分に不利になることを自ら言い出すようなことは絶対にしないだろうと考え、それを信じ、他の者がそれを打ち消そうとしても、それが困難になる」
「よって、この手口はフェアではなく禁じ手であり、全体が致命傷を負う。それを言い出し出した弁護士は、『マスコミは世論である』と言った中坊(公平)氏と、主にその人を支持した周りの組織の人たちであった」(鈴木秀幸弁護士『司法のあり方と適正な弁護士人口政策』「司法改革の失敗」)
ただ、これも現実は、「責任」を問われないという構図のなかで起こっていることです。「こんな明らかな政策の失敗に対して、当時の弁護士会関係者は誰も責任を問われないのですか」ということを、この世界を知らない人間から良く聞かれます。弁護士会は、会社のように、政策の結果に対して、誰かが立場として責任を問われることがほとんどない(なかった)、といっていい組織です。もっとも「そこまでの問題がなかっただけ」という答えも返って来るかもしれません。ただ、それも問われない体質のなかで、なかったことになっているのと区別はつかない、といわなければなりません。
弁護士会は、民主的な会員の決定によって方針が選択されているということも言われます。どんなにある立場の人間が煽動、主導したとしても、方針決定は会員全体で民主的に選択されたということです。もちろん、サイレントマジョリティも含めて、賛同した個々の責任がないとはいえません。しかし、前記言い方自体が、弁護士会の場合、責任分散の理屈で、現実的には「問われない構図」を作っているようにみえます。
今、弁護士会のなかの格差は広がりつつあります。それは、経済的な格差であると同時に、若手とベテランという世代間の格差としても語られます。弁護士会の自治・強制加入、高額会費を自分たちの生存のための活動を縛る「規制」として受けとめる、弁護士会という存在そのものに対する意識格差も生まれています。その一つの表れとしての今回の東弁副会長選挙(「『任意加入制』提案、東弁副会長候補出馬という『始まり』」)が注目されましたが、既にそうした若手が日弁連会長の座に座るための得票を具体的に考察したブロクまで現れました(「刑裁サイ太のゴ3ネタブログ」)。
格差が生まれるということは、「無責任」の構図のうえで、他者への配慮なき「選択」の危険はより高まるとみなければなりません。前記ブログ氏は、その考察の目的として、「若手を重視しない(ようにみえる)日弁連執行部体制に対する牽制として,若手が団結すればいとも容易く日弁連会長の座を得られることを示すこと」としています。「切実である」という現実は、その言葉通りには共有されない。それは、共有しない結果に、責任が問われない現実と切り離してみることはできません。
弁護士会の過去の方針選択に対して、「善意」という形で説明する論調が会内にあることも以前書きました(「『弁護士弱体化』という意図」)。ただ、それをすべて否定しないとしても、「善意」が利用される結果もまた、「無責任」の構図から生み出されます。そして、その他者への配慮に責任を問われない「改革」のしわ寄せが、結局、利用者市民に回ってくる。それがまさしく、今、であるように思えてくるのです。
いま、このテーマを投げかけると、「いまさら建設的でない」といった、弁護士が議論を封じるときに、しばしば用いるフレーズが返ってきたりします。あるいは、当時の「選択」にかかわっていた世代の弁護士からも、どこか他人事のように、「どうしてこういうことになっているんだ」といった、答えにたどりつけない、ため息まじりの声が返ってきたりします。
どういうことが想定されていたのでしょうか。弁護士が量産されても、現存の弁護士たちが対応しきれないほどの有償のニーズが埋まっているのだから、それが掘り起こされる形で、新人も既存の法律事務所に吸収されていく。開拓努力をするという意識変革さえすれば、社会全体が事後救済型になる中で、ニーズは十分に掘り起こせる。この大量の弁護士を生み出すためには、従来の司法研修所の教育では物理的に対応できないので、大学にこの養成に参入して、法科大学院を中核とする新たなプロセスで輩出するしかない単に数を増やせば、質の低下が問題にならざるを得ないが、そこは法科大学院の教育が底上げ的にレベルを確保しつつ、増員が実現されていく――。
今では当たり前のようにいわれる、競争による淘汰が質を確保するといった発想は、弁護士のなかに希薄だったと思います。これまでよりも、競争が激しくなるということは想定ができたとしても、前記潜在ニーズに関する基本的な発想のなかでは、ここまでの生存をかけた競争状態にさらされることを多くの弁護士は想定していかった。まして新人の就職難という事態や、質を教育と資格試験によってではなく、最終的に淘汰によって担保するといった状況への懸念が、正面から取り上げけられたわけでもありませんでした。
その一方で、太鼓判を押していた主導層はともかく、当時の個々の弁護士たちの本音の部分では、この業界が全体として激的な増員に耐えられるという感触をどこまでもっていたのかは、疑問です。弁護士必要論は当時、あふれていましたが、それが個々の弁護士の生活を具体的にどのくらい支える有償ニーズにつながっているのか、「開拓」という号令の先に、どのくらいの規模のものがもたらされるのか、つかめていた弁護士の方が少なかったと思います。
あえて語弊のある言い方をすれば、ここに「無責任」の構図があるように思えます。つまりは、「大丈夫」と太鼓判を押しながら、それは果たして弁護士全体の未来について語られていたことなのかという疑問です。今でも、端境期といわれる中堅弁護士が口にするのは、自分たちより上の、経済的安定が崩れることを疑いもしていなかった弁護士層の存在です。彼らは自らの安定が崩れない未来は確保できたところで、弁護士全体の未来に太鼓判を押していたのだ、と。
こういう言い方はお叱りを受けるかもしれませんが、これは「悪意」というよりも、事実上の「限界」というべきなのかもしれません。もちろん、ここに「悪意」に近いものを読みとる意見もあります。
「日弁連執行部と司法改革推進論者らが、弁護士不足のために弁護士大増員が必要であると言い出せば、それが嘘であっても、世間は、自分に不利になることを自ら言い出すようなことは絶対にしないだろうと考え、それを信じ、他の者がそれを打ち消そうとしても、それが困難になる」
「よって、この手口はフェアではなく禁じ手であり、全体が致命傷を負う。それを言い出し出した弁護士は、『マスコミは世論である』と言った中坊(公平)氏と、主にその人を支持した周りの組織の人たちであった」(鈴木秀幸弁護士『司法のあり方と適正な弁護士人口政策』「司法改革の失敗」)
ただ、これも現実は、「責任」を問われないという構図のなかで起こっていることです。「こんな明らかな政策の失敗に対して、当時の弁護士会関係者は誰も責任を問われないのですか」ということを、この世界を知らない人間から良く聞かれます。弁護士会は、会社のように、政策の結果に対して、誰かが立場として責任を問われることがほとんどない(なかった)、といっていい組織です。もっとも「そこまでの問題がなかっただけ」という答えも返って来るかもしれません。ただ、それも問われない体質のなかで、なかったことになっているのと区別はつかない、といわなければなりません。
弁護士会は、民主的な会員の決定によって方針が選択されているということも言われます。どんなにある立場の人間が煽動、主導したとしても、方針決定は会員全体で民主的に選択されたということです。もちろん、サイレントマジョリティも含めて、賛同した個々の責任がないとはいえません。しかし、前記言い方自体が、弁護士会の場合、責任分散の理屈で、現実的には「問われない構図」を作っているようにみえます。
今、弁護士会のなかの格差は広がりつつあります。それは、経済的な格差であると同時に、若手とベテランという世代間の格差としても語られます。弁護士会の自治・強制加入、高額会費を自分たちの生存のための活動を縛る「規制」として受けとめる、弁護士会という存在そのものに対する意識格差も生まれています。その一つの表れとしての今回の東弁副会長選挙(「『任意加入制』提案、東弁副会長候補出馬という『始まり』」)が注目されましたが、既にそうした若手が日弁連会長の座に座るための得票を具体的に考察したブロクまで現れました(「刑裁サイ太のゴ3ネタブログ」)。
格差が生まれるということは、「無責任」の構図のうえで、他者への配慮なき「選択」の危険はより高まるとみなければなりません。前記ブログ氏は、その考察の目的として、「若手を重視しない(ようにみえる)日弁連執行部体制に対する牽制として,若手が団結すればいとも容易く日弁連会長の座を得られることを示すこと」としています。「切実である」という現実は、その言葉通りには共有されない。それは、共有しない結果に、責任が問われない現実と切り離してみることはできません。
弁護士会の過去の方針選択に対して、「善意」という形で説明する論調が会内にあることも以前書きました(「『弁護士弱体化』という意図」)。ただ、それをすべて否定しないとしても、「善意」が利用される結果もまた、「無責任」の構図から生み出されます。そして、その他者への配慮に責任を問われない「改革」のしわ寄せが、結局、利用者市民に回ってくる。それがまさしく、今、であるように思えてくるのです。



